2016年7月31日日曜日

自分を満足させる作品を作る時強い抵抗が現れる

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)の第3章「“幸福否定”から見た異常行動や症状の仕組み」の大項目「幸福否定による現象② 自分の進歩や成長を嫌う」で述べられていることを自分の視点から要約した上で、感想をメモします。

●幸福否定による現象② 自分の進歩や成長を嫌う 要約

ア 締め切り間際まで着手が難しい事柄は個人差がある

・事務的メールと文学作品を書くのでは難易度が異なり、文学作品を書くことが一般に先送りされやすい。

・原稿は書けるが、礼状を書けない人がいる。その人は礼状を書いて人に信頼されることに抵抗を持っている。

・月刊誌原稿は書けるが、それをまとめた単行本原稿のチェックを先送りして図書発行が出来なかった人がいる。その人は自分の研究や著書が評価されることによる喜びに抵抗があった。

イ 締め切り間際の集中と能力発揮の理由

締め切り間際の集中と能力発揮の理由
笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)から引用

・時間の余裕がある時には着手が難しいのに対して、締切りまぎわになるとそれが急速に容易になるのは、時間的ないしは状況的対比で説明できる。

・つまり締切りまぎわまでの長い時間と締切り直前の時間帯とを対比させ、内心が抵抗の強さを一変させる。

・それによって、「計画に従って自発的にとり組むことは自分にとって苦痛だ」と、内心が自分の意識に思い込ませる。

・裏を返せば、本当は、時間の余裕のある段階から、その課題にじっくりととり組み、よいものにしたかったという、強い願望があった。

ウ 創作活動では抵抗が強く現れる

・自分を満足させる作品を作る時、抵抗「産みの苦しみ」が強く現れる。

・反応から逃げて楽な方向へ向かうのではなく、反応が強く出る方向に進めばその分だけ、自分が心から満足できる作品に近づけることができる。

・小林秀雄は、「苦しまなくては、本当の喜びはない」と語った。

エ 内心は人間の根源的幸福を全精力を傾けて否定する

・中原中也は、「常に人は自らで耕さなければならない! すなわ他人を意識することは、夢を即ち生命を壊す。 私は、人と人との習慣的な同意を憎む!」と語った。

・経済的・実利的活動より文化・芸術・科学・探検など未知や未踏の課題に取り組むことの喜びは人間として極めて重要な営みである。

・この重要な営み、つまり人間の根源的幸福を内心が全精力を傾けて否定する

●メモ

ア 反応が出る方向に進む必要性がある

・「締め切り間際まで着手が難しい」という幸福否定現象の解決方向のヒントとして、「反応から逃げて楽な方向へ向かうのではなく、反応が強く出る方向に進めばその分だけ、自分が心から満足できる作品に近づけることができる。」ということが書かれていることに注目したいと思います。

・反応が強く出る方向が、自分が真に満足できる方向であるという情報は自分にとって極めて有益だと思います。

・昨日、ブログ記事を書いていて、眠気を払うことが困難でした。仕方なく、WEBでニュースを読み出したら、それまでの眠気はうそのように消失しました。

・この眠気の急速な消失で、眠気は前夜の睡眠時間が足りなかったと考えていたのですが、そうではなく、自分が本当にしたいことに対する強い抵抗であると直観できました。

・眠気が強い時、あるいは趣味活動に対する興味が薄れて別の刹那的行動(テレビを見るなど)に移りたくなった時、趣味活動に飽きた時などの瞬間に、「趣味活動の重要な興味に対する取り組み」が浮かび上がっていて、それを内心が打ち消そうとしている可能性が濃厚です。

・眠気、興味減退、飽きなどの現象が逆に活動の重要局面を暗示している指標になるということになります。自分の人生では、革命的思考といってもいいと思います。

イ 反応を避けないで、反応と対峙・共生する必要がある

・自分の趣味活動も創作活動の一環であることに間違いはありません。

・社会の評価を求めるのではなく、自分の満足感のための趣味活動ですから、反応が出やすい部類の活動ということになります。

・従って、自分の活動には、反応(苦しみ)と活動の喜びがセットで存在しているということになります。

・反応(苦しみ)無しで活動の喜びだけを甘受しようという虫の良い話は、幸福否定現象を人の心が備えている以上、無いということです。

・反応と対峙・共生する具体的方法は、現時点では笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)を学習しながら、自分で編み出す必要があると考えます。

・同時に反応と対峙・共生した創作関係者の事例は無数にあるのですから、その無数の事例から学べるものはたくさんあるに違いありません。

花見川風景 2016.07.31 早朝





2016年7月29日金曜日

幸福否定の個人差

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)の第3章「“幸福否定”から見た異常行動や症状の仕組み」の大項目「幸福否定による現象① 課題の解決を先送りする」では、幸福否定の個人差に触れていますので検討します。

著者の記述を自分なりに理解すると、幸福否定の個人差は4段階に分類できそうです。

1 幸福否定の意思の弱い人

「かなり前向きなこともほとんど抵抗なくできてしまう人が、ごく少数ながらいる」


2 幸福否定の意思が極めて強い人

「生死にかかわるほどの、あるいは、一生をだいなしにするほどの重大な行為を繰り返しても、なおかつ懲りようとしない人たちも、周知の通り、少数ながらいるわけです。

薬物やアルコールの依存者や、ギャンブルの耽溺者、犯罪の常習者などが、それに当たります。

そのような人たちには、意志が弱いという説明が当てられることが多いわけですが、そうではなく、幸福否定の意志がきわめて強く働いた結果として、自滅的な形をとっていると考えるべきでしょう。」

3 幸福否定の意思の強い人

「どれほど叱責されても、性懲りもなく遅刻や同じ失敗を繰り返す人は、みなさんのまわりにも何人かいるはずです。

そのような人たちは、自分が起こした行動の結末について、いちおうの謝罪はするかもしれませんが、真の意味での反省をすることはありません。

そして、周囲の迷惑や心配をよそに、まるで初めてでもあるかのように、全く同じ失敗を繰り返すのです。

そうなると、失敗という言葉は当たらず、それを目的として起こした行動と考えなければならないことがわかります。

幸福否定が弱い部分についてはまだしも、強い部分については、人から指摘されても、それを深刻に受け止めることができません。

それどころか、強い叱責を受けてすら、それが自分にとって一大事であることに、意識ではほとんど気づかないのです。

幸福を避けようとする方向に、みごとに一貫した行動をとっているにもかかわらず、意識の上では、ことの重大性がまるでわからないようになっています。

問題点を頭で理解したとしても、人ごとのようになってしまい、実感がまるで湧かないということです。

しかし、幸福否定に基づいて起こす行動であるとはいえ、やはり限度というものがあります。

つまり、その行動が繰り返せなくなるほどの痛手をこうむるまでのことは、原則としてしないということです。

ことの重大性とその認識に応じて、適度に自分の意識を困らせるように、内心がその度合を巧みに調節しているのです。

このようにして、肝心な課題の解決を先送りする傾向が温存されるわけです。」

4 幸福否定の意思が通常レベルの人

例えば、課題の解決を先送りする性向を供えた人であり、つまりほとんどの人は3か4に当てはまるのではないかと考えます。


図書「幸せを拒む病」ではこのように幸福否定の個人差を4段階くらいに分けているように感じられます。

しかし、幸福否定という心の現象は万人にあり、その原理は「幸福否定の意思の強い人」で引用した文章と同じであると理解します。

つまり、

・同じ失敗を繰り返す傾向

・人から指摘されても深刻に受け止めることが困難な傾向

・問題点を頭で理解したとしても実感が湧かない傾向

があり、同時に

・その行動が繰り返せなくなるほどの痛手をこうむるまでのことは原則としてしない傾向

・ことの重大性とその認識に応じて、適度に自分の意識を困らせるように、内心がその度合を巧みに調節する傾向

があり、結果として

・肝心な課題の解決を先送りする傾向が温存される

と考えます。


さて、幸福否定という心の現象は、その生物進化的理由が検討されるほどの現象ですから、生まれつき遺伝してきた現象であることは間違いないところだと思います。

従って、素人考えではその個人差も遺伝的なものが大きな比重を占めていると考えたくなります。

それでよいでしょうか?

幸福否定の個人差に遺伝以外の家庭環境、教育等の社会的要素、あるいは年齢・経験等の要素がどの程度関わるのか、笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)では全く触れていないようです。

そもそも心理療法家笠原敏雄さんが心理療法で幸福否定現象の緩和を実践されているのですから、幸福否定現象が社会要素で変化しうる(変化している)ことが原理として推察できます。

幸福否定の意思の強さの個人差がある程度は社会要素に関わっていることが推察できます。


また、自分自身の個人を例に取ると、加齢に従って幸福否定の意思が弱くなってきているように感じています。

ですから年齢・経験等で幸福否定の個人差が変動することも推察できます。


幸福否定現象そのものの原理を知ることが先決であることは当然ですが、その現象の個人差を単純に遺伝にだけ求めるのではなく、社会との関わりでも解釈したいという願望が生まれています。


花見川風景 2016.07.29

2016年7月27日水曜日

課題の解決を先送りする現象とその生物進化的理由

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)の第3章「“幸福否定”から見た異常行動や症状の仕組み」の大項目「幸福否定による現象① 課題の解決を先送りする」では、課題の解決を先送りする現象つまり幸福否定について、その生物進化的理由が書かれていますので検討します。

その部分を引用します。

……………………………………………………………………
幸福否定という意志が、人間特有のものなのか、それとも系統発生の中で必然的に出現したものなのかという問題は難しいテーマですが、いずれにせよ、幸福否定の結果、自分が望む方向へ進歩したり、成長したりすることを避けようとする力が働くこと自体はまちがいありません。

自分の問題行動に懲りたり、困ったりすれば、同じ失敗をしにくくなります。

したがって、懲りたり、困ったりしないようにするのは、同じ失敗を繰り返す余地を残しておくためということになるでしょう。

このことは、前章で説明しておいた通りです。

したがって、これは、能力としてできないということではないので、生物としての本性に逆らった、ある意味で非常に高度な行動と考えるべきなのではないでしょうか。

人間以外の動物には、難しいはずだからです。

そのように考えると、幸福否定は、人間特有のものではないとしても、生物が本来的にもっている特性が、人間になってからきわ立つようになったひとつの結果ということになるでしょう。

……………………………………………………………………

課題の解決を先送りする現象は強弱はありますがほぼ万人に見られるに現象であり、それが幸福否定現象そのもの一つです。

この幸福否定現象では失敗をして凝りたり困ったりすることの無いような状況がつくられ、同じ失敗がいつも繰り返されることが特徴であると著者は繰り返し説明しています。

このような同じ失敗が繰り返される余地が残されるということは、他の生物では種の存続に関わることになるのであり得ないことであり、人間になって際立つようになった生物の本来特性であると説明しています。

しかし、残念ですが、この本では人間になって際立つようになった生物の本来特性である幸福否定がなぜ存在するのか、その意味、意義、理由は一切書かれていません。

生物進化の上で幸福否定現象が意味、意義、理由を持っているという暗示が書かれているだけで、その具体的説明はありません。

なお、著者のホームページ(「心の研究室」)の近況報告欄に「幸福否定の生物学的起源についても推測している」著書の執筆についての記事があります。

その著書(今西進化論に関する著書)の刊行が楽しみです。


幸福否定の生物進化的意味の自分の感想は2016.07.19記事「幸福否定の生物進化における意味」でメモしました。


さて、幸福否定という現象が、生物としての本性に逆らって、非常に高度な行動として、持てる能力を発揮しないという説明に強い興味を持ちます。

人は幸福否定という特性を具備しているので、より高度な行動(=幸福否定)を通して本来能力を発揮していないということになります。

社会通説として「人にはその能力を自動的にセーブする機能があり、本来能力の僅かしか発揮されていない」ということがよく言われています。

この社会通説で言うところの能力自動セーブ機能が幸福否定そのものであるのか、別ものであるのか、今後検討を深めたいと思います。

花見川風景

2016年7月24日日曜日

幸福否定のさまざまな現れ

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)の第3章「“幸福否定”から見た異常行動や症状の仕組み」では最初に小見出し「幸福否定のさまざまな現れ」の文章で4つの項目を取り上げで、その後、その4つの項目について詳しく検討しています。

この記事ではその4つの項目に関する文章を引用紹介します。

次の記事からそれぞれの項目について学習します。

……………………………………………………………………
幸福否定のさまざまな現われ

幸福否定は、大きく分けると、能力と人格という、人間のふたつの側面に姿を現わします。

ただし、ここには大きな偏りがあり、人格的な側面のほうに、はるかに強く出現するのです。

そのことは、さまざまな能力を発揮しているにもかかわらず、人格的に問題のある人はいくらでもいるのに対して、人格的にすぐれた人の場合には、まずまちがいなく能力を伴っているという、身のまわりに散見される事実を考えるとわかりやすいでしょう。

次に、第1章でとりあげた現象と多少の重複はありますが、幸福否定が関係していることが比較的わかりやすい現象を、読者の方々に関心をもっていただけそうな項目の中からいくつかとりあげ、詳しく解説することにします。

それは、次の4項目です。

これら4項目を、能力と人格のどちらの側面に関係しているかという視点で強いて分けると、最初の2項目は、能力的な側面と人格的な側面の両方を含んでいるのに対して、あとの2項目は、主として人格的な側面に関係しているといえるでしょう。

①課題の解決を先送りする

②自らの進歩や成長を嫌う

③自他の愛情を受け入れようとしない

④反省を避ける

いずれも、比較的多く見られる現象であるのは確かですが、どれもがすべての人に当てはまるわけではないことは、あらためて言うまでもありません。

また、このような並列的な分けかたが必ずしも適切なわけでもありません。

最初のふたつは、多少なりとも重なり合うでしょう。

また、4番目の項目は重要です。

それ以外のすべての項目に関係してくるからです。

あるいはほかのすべての項目の上位にあると考えることもできます。

……………………………………………………………………

4つの項目の説明の中で「さまざまな能力を発揮しているにもかかわらず、人格的に問題のある人はいくらでもいるのに対して、人格的にすぐれた人の場合には、まずまちがいなく能力を伴っている」と指摘し、幸福否定は能力的な側面より人格的な側面のほうにはるかに強く出現するという結論は大変重要なものであると直観します。

このブログでは趣味活動における能力的な側面に焦点を当てて「幸福否定」現象を学習しています。

しかし、はたして自分に「自他の愛情を受け入れようとしない」現象、「反省を避ける」現象がどの程度存在するのか、あるいはその現象が自分の学習テーマとどのようにかかわるか、全く先が読めていない白紙の現状があります。

順次学習を進めていきます。

畑の空 2016.07.24


2016年7月21日木曜日

自分がほんとうにしたいこと(=幸福)に絶対性があるか?

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)では幸福否定という万人が備えた心の現象を扱っていて、その現象は大変興味深いものです。

自分の生活を振り返っても、また周りの人を見まわしても、幸福否定という現象で人の不可解な行動を的確に理解できます。

私は掛け値無しで、この理論はノーベル賞級だと直観しています。

さて、そこで使われる幸福という概念に感想を持っています。

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)では幸福という状態を次のように説明しています。

……………………………………………………………………
では、「幸せになりたい」という時の「幸福」とは、いったいどのような状態なのでしょうか。

これを考える時、喜び(幸福感)と楽しさ(快楽)の区別は非常に重要です。

このこと自体に注目する専門家はほとんどいませんが、実は、誰でも意識下ではこの区別をいつも明確に行なっています。

手短に説明すれば、自分の成長につながることに伴う感情が喜びであり、その場だけの刹那的な快楽に伴う感情が楽しさです(ちなみに、英語では、喜びはhappinessに、楽しみはpleasureに当たります)。

わかりやすい例をあげれば、自分が本当にしたいと思っていることをする時に出る感情が喜びであり、それから逃げて時間つぶしをする時の感情が楽しさです。

喜びにつながる行動には抵抗がありますが、楽しいことには、原則として抵抗はありません。

つまり、ほとんどは、喜びを避けて楽しみに逃げてしまうということです。

それは、無意識的にではありますが、この区別が明確にできていなければ不可能なことです。

(中略)

ベルクソンは、喜び(幸福感)と楽しさ(快感)は、根本から異なる感情だと言っています。

自分の目標を達成した時や何らかの創造をした時、人格の成長が実感された時などの、生命が向かうべき方向を知らせてくれる感情が喜びであるのに対して、一時の快感が楽しさだということです

(中略)

したがって、自分の幸福を避けたり否定したりするということは、自分の能力の発揮や人格の成長を嫌うということであり、生命が向かう方向に逆行しているということになるでしょう。

本当の幸福へ向かう道を、心の中の悪魔が明確に判断し、快楽や楽しみという形で阻止するのです。

……………………………………………………………………

上記の文章にはもちろん賛成なのですが、現実生活ではこのように喜び(幸福感)と楽しさ(快楽)を2元的、絶対的に分割できないことはいつも感じることですから、より深い思考が必要です。

卑近な例でいえば、受験生が受験勉強をして大学を目指すという活動に喜びをを見出すことはあると思います。

その活動には多くの抵抗がありますから、快楽を避けて大学合格した人が喜び(幸福感)を味わったと表現できます。

ところが、会社経営(組織運営)を使命とする人が、会社や組織運営に必要な資格試験の受験勉強に熱中したらどうでしょうか。

その人の本分である会社経営(組織運営)を脇において、「多くの抵抗に抗して、快楽を避けて」受験勉強しても、それは褒められるものでは到底ありません。

会社経営(組織運営)を使命とする人の喜び(幸福感)は会社経営(組織運営)を発展させることですから、ほとんどの場合本人の受験勉強は本人の意識でも、他人から見ればなおさら道楽(快楽)になります。

このように同じ「受験勉強」でも人によって、状況によって喜び(幸福感)になったり楽しさ(快楽)になったりすると考えられます。

喜び(幸福感)と楽しさ(快楽)の区別は厳密に考えると、あくまでも相対的なものであると考えます。

現実の世の中では「この活動が喜び(幸福感)をもたらすものであるか、単なる楽しさ(快楽)であるか」判断に迷うことも多々あります。

自分の意識がこのように迷った時、「本当の幸福へ向かう道を、心の中の悪魔が明確に判断し、快楽や楽しみという形で阻止するのです。」ということになるのでしょうか?


現時点では喜び(幸福感)と楽しさ(快楽)の違いは相対的なものであり、現実世界では状況の変化の応じて絶えず変化する、入れ替わるものであると考えます。

また自分が「1番したいこと」も相対的であり、変化し、入れ替わることがあるように感じています。

花見川風景





2016年7月19日火曜日

幸福否定の生物進化における意味

このブログでは笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)の学習を行っています。

幸福否定という万人にある心の現象は大変興味深いので、詳しく知りたいと考え、学習しています。

興味の主な所在は自分自身の生活改善(趣味活動の発展)のために、有用なヒントを得たいという点にあります。

さて、そのような実践的な興味とは別に、幸福否定現象というものが生物進化の中でどのような意味を持つものか気になります。

「幸せを拒む病」(フォレスト出版)の最終文章は次のようになっています。

……………………………………………………………………
生物が進化するにつれて意識が次第に浮上して、類人猿が人間になってから最も明瞭な意識が出てきたわけですが、現在の人間の意識のほとんどは、まだ自分の本質を隠蔽する手段という段階にとどまっています。

私の心理療法の経験からも言えることですが、この脈絡で考えると、進化の最終目標は、心の奥底に浴んでいる本心を、意識に浮上させることなのではないかと思います。

それが実現されたあかつきには、幸福否定をする内心が消滅し、本来の能力や徳性が自在に発揮できるようになるということです。

ひるがえって、完壁な能力や徳性が人間に内在しているとすれば、内心という心の層が生み出す複雑なしくみによって、それらを表出しにくくしているのは、あるいは、それを覆い隠そうとするのは、いったいなぜなのでしょうか。

このことは、進化の本質に関係しているに違いないと、私は愚考していますが、いずれにせよ、真の意味で人聞を理解するには、反応やその背後にある抵抗の本質を明らかにすることが不可欠です。

そして、そのための糸口は、私たちの身近にあまねく存在しているのです。
……………………………………………………………………

進化の本質に関係するところまでは述べていますが、それ以上の言及はなく、気になります。

とりあえず学習を始めた現時点の自分の想像をメモしておき、いつか再び進化上の意義を考えるときの材料としたいと思います。

●メモ

幸福否定という万人がもつ心の特性(現象)は、意識がしたいと思うこと(特に計画的、自主的にしたいと思うこと)を意識が気が付かないように邪魔するということです。

アクセルを踏もうとすると、自動的にブレーキもかかってしまう仕掛を人は内臓していることになります。

しかし、最初から最後まで意識のしたいことを完璧に阻止するブレーキでないことは明らかです。

あくまでも意識がしたいことの邪魔をしてそのスピードをダウンさせるのが目的であると考えます。

もし、幸福否定という心の現象がなければ、人は意識することを次々に高スピードで実現してしまいます。

社会全体としては、人間社会を取り巻く環境を細部の細部にわたるまで最大限利用して「幸福」な社会を高スピードで作ってしまいます。

そのような状況が出来た時、人は現存環境に適応しすぎてしまい、後戻りできなくなる可能性が生まれるのではないかと考えます。

現在の環境に極端に適応してしまうと、環境が変化した時自分自身を新たな環境に適応させる可塑性を失ってしまうと考えます。

幸福否定という心の現象は生物進化における暴走防止用スピード調整機能であると考えます。

花見川風景(2016.07.19)



2016年7月15日金曜日

記憶消去を指標とした重要性判断

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)に次のような文章があります。

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人聞は、何らかの出来事や状況に直面した時、それが幸福感を呼び覚ますものかどうかを、つまりは、それが自分の進歩につながることかどうかを、心の奥底で一瞬のうちに正確に判断します。

そして、それが幸福感を呼び覚ますものであれば、その瞬間にその幸福を避けようとする態勢に入ります。

その時、「内心」は次のふたつの戦略を同時並行的に使います。

ひとつは、いわば幸福に水を差す形で、心身の症状を瞬時に作りあげたり、行動の異常を起こしたりすることです。

もうひとつは、幸福感を呼び覚ます出来事や状況の記憶を、意識から一瞬のうちに消し去るという操作をすることです。
……………………………………………………………………

ここで、「幸福」を、本人が計画的自主的にしたいという意味におきかえて考えます。

そうすると、計画的自主的に物事を進めようとする場合、それに水を差すように心身症状がでたり、行動異常がでます。

同時に計画的自主的に物事を進めるための出来事や状況の記憶が消し去られます。

このような心の現象が人によって、あるいは状況によって強く出たり、弱く出たりするということとして、上記引用文を理解できます。

さて、自分の趣味活動をふりかえると、新発見とか、斬新な仮説がうまれた活動を記録・メモしたブログ記事の存在が記憶から消えている場合が多くなっています。

いつもはしない過去記事の通読をすると、書いた時は重要であると考えた「新発見とか、斬新な仮説がうまれた活動を記録・メモしたブログ記事」の記憶が他のどうでもよいような記事と比べて、特に薄くなっていることに気が付きます。

どうも、重要な記事は特に忘れやすいという現象があるように感じます。

これまでの自分の人生で、記憶が薄れるという現象はその内容には関係なく均一に生起すると考えてきましたが、どうも選択的であるようです。

自分が計画的自主的にしたいと思っている事項の重要度が高いものから、記憶が消去される傾向がありそうです。

もし、それが事実ならば、計画的自主的にしたいことで特に重要度が高いものは、記憶消去の可能性が高いことを意識して繰り返し思い出すような工夫をする必要があります。

同時に、結果として忘れたことに気が付いたことがあった場合、それが重要度の高い情報である可能性が高いと考えることです。

つまり、記憶消去が重要性判断の指標の一つになることもあるということです。

花見川 弁天橋から上流 日の出

2016年7月14日木曜日

幸福否定による現象 自分の進歩や成長を嫌う

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)第3章に幸福否定の現象として「自分の進歩や成長を嫌う」という小見出しの文章があります。

その中での次の事例が紹介されています。

……………………………………………………………………
この編集部長は、書籍部に異動するまでは、同じ出版社で月刊誌の編集長を務めていました。

その時、ある大学教授に、自分の担当する雑誌に連載記事を書いてもらったのです。

その教授は、毎月の締切りにいつも間にあうように原稿を送ってくれました。

その点では、信頼性は高いことになります。

そして、連載はめでたくぶじに終了しました。

ところが、問題はその先にあったのです。

編集長は、この連載を単行本にする企画を立て、教授に許可を得たうえで全編を組み直し、その初校ゲラを教授に送りました。

全体が既に活字になっているのですから、教授は、それに目を通し、必要であれば多少の修正加筆をして送り返すだけでよいわけです。

それだけで著書として出版できるところまで来ていたのです。

ここまでできていれば、著者にとって、最も簡単な書籍出版ということになるでしょう。

にもかかわらず、この教授は、ついにそれができなかったのです。

もちろん、編集長は、何度も催促しています。

加えて、たまたま会合で顔を合わせる機会が何度かあったそうですが、その時にも教授は、「もう少し待ってほしい」と言うだけでした。

そして、信じがたいことに何の進展も見られないまま、いたずらに数年が経過したのです。

最終的に、この出版社は、あろうことか、組版代を棒に振る形で、出版を断念せざるをえなくなったのでした。

この場合、月刊誌の連載の原稿はいつも間にあっていたのですから、原稿を書くこと自体に抵抗があったわけではありません。

それよりも、この教授は、その作品を単行本として出版することに抵抗があったことになるでしょう。

この編集長の話では、定期刊行物の原稿が遅れることは、比較的少ないのだそうです。

問題は、書籍用の原稿なのです。

その違いは、同じ作品であっても、雑誌に掲載された記事に対する評価と、書籍として出版された場合の評価に着目すれば、おのずとはっきりします。

そのことは、このような経過で出版された書籍を考えればわかるでしょう。

連載の間に評判になったとしても、評価されるのは、書籍として出版された時なのです。

書籍の場合には、自分の作品として後世に残りますが、月刊誌の記事であれば、わずかひと月で書店から消え去り、その後は(専門的な論文を別にすれば)ほとんど忘れ去られてしまう宿命にあるのです。

したがって、この教授は、自分の研究や著書が評価されることによる喜びに抵抗があったことになります。

抵抗というものは、他人から見れば、どうしてその程度のことができないのかと、ふしぎに感じられるものが多いのですが、その裏には、やはりそれなりの事情があるということです。

氷山の一角という言葉がありますが、表面に出ている部分は小さくても、その下に大きな意味が隠れているのです。

そのことがわからないと、この疑問は解消されません。

……………………………………………………………………

この事例を読んで、今の自分が忘れていて、このブログにおける学習で気が付きたいと思っていたことが判るヒントになりそうだと直観できましたので、メモしておきます。

私のブログでは趣味次元ではありますが、他の方が唱えていない多くのオリジナル仮説を自分なりに唱えています。

折角だから、日々のブログ記事で終わることなく、まとめた文章にしようと思ったことが何度もあります。

そのための準備をし出したことも何度かあります。

しかし、全ての試みが途中挫折で終わっています。

挫折の仕方は、いつもだいたい同じです。

日々のブログ記事作成に忙しくなって(緊急的に面白いことが生まれてしまい)、ブログ記事をまとめるという活動の意義がだんだん薄らいでいきます。

最後は記憶からなくってしまい、気がついたら「少し前、ブログ記事をまとめようと思っていたけれど、すっかり忘れてしまっていた。今はもう取り組めないから、将来時間ができたら再チャレンジしよう。」ということになっています。

自分の趣味は学問ではありませんが、上記事例でいうような「自分の研究や著書が評価されることによる喜びに抵抗がある」と同類の抵抗が自分にあるようです。

そして、抵抗はその場その場における心理的身体的抵抗だけでなく、記憶を消去するという抵抗があったことが初めてわかり、とても参考になりました。

日々のブログ記事は活発に書き、充実感を覚えることも多々ありますが、それをまとめたいまとめたいと希望しながら、もう3年もたっています。

ブログ記事をまとめるという希望を自分自身が邪魔しています。

自分自身の「幸福否定」現象の本丸に近づいてきたような感想を持ちます。

花見川早朝風景

2016年7月11日月曜日

幸福否定という驚くべき心のしくみ

1 「幸福否定」現象について

笠原敏雄著「幸せを拒む病」第1章に「"幸福否定"という驚くべき心のしくみ」という小見出しの文章があり、次のような説明がされています。

……………………………………………………………………
ここまで、多くの人の場合、自分が本当にしたいことをするのが難しいことや、その結果として、幸福を遠ざける行動を起こしゃすいことを教えてくれる実例をいくつか見てきました。

ここで、これらの日常的な出来事から、どのようなことが言えるかを整理しておくと、次のようになります。

①自分が幸福に向かう時に、あるいはすでに幸福が訪れている時に

②その喜びを意識にのぼらせまいとする強い力が働く

③その時に、心身症と言われる疾患に見られる症状が一時的に出現する

(略)

人聞は、何らかの出来事や状況に直面した時、それが幸福感を呼び覚ますものかどうかを、つまりは、それが自分の進歩につながることかどうかを、心の奥底で一瞬のうちに正確に判断します。

そして、それが幸福感を呼び覚ますものであれば、その瞬間にその幸福を避けようとする態勢に入ります。

その時、「内心」は次のふたつの戦略を同時並行的に使います。

ひとつは、いわば幸福に水を差す形で、心身の症状を瞬時に作りあげたり、行動の異常を起こしたりすることです。

もうひとつは、幸福感を呼び覚ます出来事や状況の記憶を、意識から一瞬のうちに消し去るという操作をすることです。

そうすると、意識の側から見れば、何が起こったのかわからないまま、自分が急にうつ状態になったり、頭痛や胃痛などの自覚的な身体症状が出たり、喘息発作や蕁麻疹などの他覚的な身体症状が出たり、場合によっては、リストカットなどの自傷行為を起こしたりするわけです。

その結果、意識では、自分が幸福に向かっていた、あるいは幸福の状態にあるという事実が全くわからなくなります。

そればかりか、実際には、不幸のどん底に陥ったような感じにすらなるのです。

その時、もし多少の心理的余裕があれば、過去に遡って、その”原因” となる「悪い出来事」を探し始めるでしょう。

……………………………………………………………………

ここに書かれていることが著者のいう「幸福否定」という心の現象です。

著者は心疾患のほとんどがこの「幸福否定」現象によって引き起こされていると考えているようです。

2 私が「幸福否定」現象に興味を持つ理由

私は、この「幸福否定」という万人が備えた心の現象について、趣味活動における知的生産性向上という観点から興味を持って学習しています。

つまり、「幸福否定」現象を理解して、それを少しでも緩和できれば幸福(つまり趣味活動の知的生産性向上)に近づくことができるのではないだろうかと考えます。

3 私が体験している「幸福否定」現象 お茶

ささやかなものですが、私が体験している「幸福否定」現象の一つをメモしておきます。

趣味活動の中で新発見をした、あるいはだれも気がついていないことに気がついたと直観して心がかすかに興奮するような時が時々あります。

その時、なぜか気が付くと、既に自分は机から離れて書斎を抜け、次の間を通り居間に向かっています。

自分は何をしたいのだろうかと自問すると、お茶を飲みに、キッチンにお湯を沸かしに向かっています。

意識の表面では、お茶が飲みたくなったので、その用意に向かったということになります。

この不思議な行動は若いころからありました。

また、若いころ居た職場の上司が同じ行動をとっていました。その上司はグッドアイディアが浮かぶと決まってお茶の機械に向かいお茶を飲みます。

ですから、逆にお茶の機械に向かった時は何かよいアイディアが浮かんだに違いないと想像できました。

私は笠原敏雄さんの「幸福否定」概念を知るまで、グッドアイディア(あるいは新発見)を祝福して無意識が本人をお茶に誘っているのだと好意的現象として何十年も考えて、疑ってきていませんでした。

しかし、万人に遍在する「幸福否定」現象を知って、よくよくお茶行動を分析すると意外なことに気が付きました。

まず、新発見してこれは素晴らしいと思った瞬間に(幸福に突入した瞬間に)、お茶になりますからその新発見について臨機の熟考が行われません。

新発見についてさらに思考を深め豊かにする活動の出鼻がくじかれます。

また、お茶を飲む時に、テレビ、新聞、家族との会話など趣味思考の中断になり新発見のすばらしさが意識の上で希薄になります。

お茶から戻ってきて席につくと、体のどこかが気になったりして(例 耳が痒くなり綿棒で掃除するなど)、いっこうに新発見に取り組みません。取り組みたい気持ちとは正反対の気持ちになることがあります。

新発見を完全に忘れることは少ないにしても、興奮が冷めていて、「もっと煮詰まったら検討しよう」という気持ちになり、その場での臨機の検討が行われないことがほとんどになります。

結局、お茶行動により、新発見の検討が遅れ、趣味活動のテンポが遅くなります。

もっと生産性を向上できる可能性があるのに、そのチャンスを自分でつぶしているように感じます。

大変ささやかですが、私の「お茶」は幸福否定の一環であると考えます。

「お茶」は一例ですが、他にも趣味活動における「幸福否定」現象があるように感じますので、随時メモしておき、その対処法(「幸福否定」現象の緩和法)の学習を楽しみにします。


参考 墨書文字の解釈が出来た瞬間

このような解釈が出来た瞬間にお茶になり、その検討を深め、それを説明図に仕上げるような活動が忘れられたり、後回しになります。

ブログ花見川流域を歩く本編2016.04.04記事「漆業務発展祈願の墨書文字を認識した瞬間」参照






ページサムネール画面を利用した俯瞰的読書(学習)

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版、2016.06)の学習をしていますが、その読書にAdobe Acrobat Proのサムネール画面を拡大してサムネールを極大化して、そのサムネールで読書(学習)しています。

Adobe Acrobat Proのページサムネール画面を利用した俯瞰的読書(学習)

モニター画面4面という特性を最大限に発揮した読書法です。

サムネール画面には極大化したページ6ページ、ページ画面には2ページを表示できます。

この読書では次のような利点があり、著者の文章を俯瞰的に吟味することが可能です。

1 読んでいる部分の前後の記述をいつでも眼球レベルの移動だけで確かめることができる。

2 スクロールすることにより図書全体のどこにでも素早く移動できる。書いてある事項の図書内位置が平面上の位置として認識できるようになる。

3 テキストデータをページ画面から取得できる。(pdfファイルはocr処理してあります。)

2016年7月8日金曜日

抵抗の状況的対比現象の入れ子構造とその見える化

2016.07.06記事「抵抗の対比の入れ子構造」で、自分が体験した長期単純作業における状況的対比現象に入れ子構造があることを説明しました。

1 参考 抵抗と状況的対比について

ここで、抵抗とは私の意識がある事を成し遂げようとするとき、その実現を阻もうとする内心(無意識)の働きです。

状況的対比とは、本人(の意識)が計画的自主的に物事を行おうとする時、それがいかに困難で不愉快なことであるか意識がさとるに好都合な時に抵抗が発現し、そうでない時には抵抗が弱まるあるいは発現しないという仕組みのことです。

つまり意識が計画的自主的に物事を進めようとするとき、内心がより効果的な場面で抵抗して意識をこらしめ、物事の実現を阻みます。

そして状況が変わると抵抗を止めて、その抵抗強弱の対比を際立たせます。

その対比により、より効果的に意識の計画的自主的活動の気運を殺ごうという仕組みです。

(笠原敏雄著「幸せを阻む病」の抵抗、状況的対比の概念による)


2 状況的対比の入れ子構造を使った抵抗との戦い

抵抗は何が何でも、どんな状況でも、必ず100%発現するのではないようです。

状況的対比という概念にすでに内包されているように、抵抗は発現したり、発現しなかったりします。

具体的には、意識が計画的自主的活動をはじめて、その活動の成算が立たない間に限って出現するようです。

その活動の成算が立てば、つまりこの活動は「できる」「もらった」「取った」などの感情で直観できるようになれば、抵抗は霧散するようです。

このことから、状況対比現象を利用することによって実生活を改善することが可能であると考えます。

つまり、その活動の成算(完成見込み)が立つまではひたすら抵抗(眠気、億劫感、…)と戦って耐えて、活動を継続することです。

しかし、大きな活動ではその成算が立つまで抵抗と戦って耐えることは困難です。

ところが、状況的対比には入れ子構造があることが判りました。

大きな活動でも、活動を入れ子状に分割していけば、例えば1年間の活動を毎月の活動に分割し、月の活動を毎日の活動に分割し、1日の活動を幾つかのユニットに分割すれば、その分割毎に状況的対比が出現します。

つまり活動を分割すれば、1年間の活動全体ではなく、1時間の活動である1単位の中で抵抗と戦えばよいのです。

これで抵抗と戦って勝てる条件をセットすることができました。

1単位(1時間)の中なら、抵抗(眠気、億劫感・・・)との闘いに勝てる可能性が強まります。

3 状況的対比を活用した抵抗との戦いにおける見える化の重要性

大きな活動も入れ子状に分割して最終的には扱いやすい1単位(例 1時間仕事)の活動にして、その活動を行った時、その成算が立つまでの間の作業量は、私の場合は3/4(75%)とか80%です。

つまり、作業を始めてからその作業量が75%とか80%に達したことが判れば、ほぼ自動的にその作業単位の成算が立ったことになり、抵抗(眠気、億劫感、…)が解消します。

そこで、私の場合、パソコン画面で出来るだけどこまで作業が進んだのか確認できるようにしました。つまり作業状況を見える化したのです。

単純作業を進めていて、現在どれほど作業が進んだのかわからない状況では抵抗に苦しめられ続けます。

しかし、現在の作業進行度合いが判れば、あとどれだけ作業すれば抵抗が無くなるとわかるので、抵抗に耐えることができます。

私の場合、入れ子状に分割したそれぞれの段階作業で、作業進捗度を見える化しました。

その結果、個人で行うには無謀ともいえる大きな作業(94000小字の表記とルビの電子化、データベース化)を行うことができたのだと思います。

4 私の作業における入れ子構造別にみた状況的対比

次に私の作業における入れ子構造別にみた抵抗の発現と消滅(つまり状況的対比)をイメージ的に示します。

1単位(1時間程度)の作業における状況的対比

1日の作業における状況的対比

参考 毎月の作業の見える化資料

作業全体における状況的対比


2016年7月6日水曜日

抵抗の対比の入れ子構造

2016.07.05記事「抵抗の時間的状況的対比に関する感想」で私が体験した長期単純作業におけるしつこい眠気と最終段階における眠気消失が抵抗の状況的対比現象であることを学習しました。

そして、その現象は対比という概念で捉えられてのですから、原理として最後の最後まで眠気に襲われ続けてお終いになってしまうことはなく、相が変化すれば眠気はなくなるのことを知りました。

私の体験はそのものであったのでした。


上記記事で書いたことは14か月に及ぶ単純作業全体の様子を述べたものです。

しかし、期間をもっと短くとってみると、そこにはまた別の規模の小さな状況的対比が入れ子としてありますので、それを抜き出して確認し、状況的対比が入れ子構造になっていることの意義を検討します。


1 状況的対比の入れ子構造


千葉県の小字94000の電子化作業を開始したのが2015年2月です。

強烈な眠気を伴う困難な作業を何度もの中断をはさんで続けました。

そして2016年2月になると残作業量が残り20%程度になり、「もう少し頑張れば自分の力だけで100%作業できる。挫折しないで完了できる。」と直観しました。

この直観を得たその瞬間から眠気がうそのように全くなくなりました。

その翌日もさらに翌日も…、もう眠気が襲うことはそれ以降ありませんでした。

この長期の期間における状況の変化による眠気による妨害と、眠気の退散が1番目の対比です。




実際の小字電子化作業は準備作業2か月、市町村別作業12か月計画とし、12か月は4期に分け、Ⅰ~Ⅳの各期に千葉県54市町村を割り振りました。

Ⅰ期~Ⅲ期は眠気は激しい期間でしたが、今から思い出すと各期の作業が進んでその期の作業ノルマの残量が少なくなると、作業スピードが上がりました。

全体の作業を区切った分割期間について、状況的対比が起こっていたと考えます。

つまり、その期の作業ノルマの残量が多い時は眠気も激しく、1日のうちで作業を長時間継続することは困難でしたが、作業ノルマ残量が減ると、それを達成できる予測がたち、作業を長時間継続することが苦では無くなります。

自分が設定した作業計画ですが、それに対応して状況的対比が現象として起こっているのです。

つまり、入れ子構造で状況的対比が起こっているのです。





この入れ子構造の状況的対比は市町村単位でも存在します。

ある市(例千葉市)の作業を開始した時は苦しく、残りの作業量が20%くらいになれば、千葉市の作業はもうすぐ終わると直観できて、作業はとても楽になります。

つまり内心の抵抗の強の状況的対比が観察できるのです。





入れ子構造はさらに何段階にもわたって存在します。

朝、本日の作業計画をリスト化して作業を始めます。

睡魔との戦いが早朝から始まります。

そして夕方になると、リストの大半ができていれば、本日の作業の残りは少しだからと直観して眠気は退散します。

作業の多くが残ったとしても、後1時間だけで作業は止めようと決めると、不思議に眠気は退散します。

内心の抵抗の状況的対比がここでも観察できると思います。

このように内心の抵抗の状況的対比は何層にもわたって入れ子構造になっていることを体験的に確認できました。


2 状況的対比の入れ子構造の意義

状況的対比が入れ子構造になっているということから、内心が自分に及ぼす抵抗(邪魔)に対処する方法もまた入れ子構造であるということが判ります。

自分の内心が自分自身に及ぼす悪影響に対処していくためには、大きな抵抗にではなく、小さな抵抗に対処した方が有効であると考えます。

例えば、94000小字の電子化を前にして目がくらむような、足がすくむような抵抗に対処するより、100の小字の電子化という局面を作り出し、その時発生する眠気やさぼり心に対処する方が成算があります。

状況的対比の入れ子構造を逆手にとって、抵抗に対処することが一つの重要技術になりそうです。

参考 角川千葉県地名大辞典付録小字一覧の1ページ

2016年7月5日火曜日

抵抗の時間的状況的対比に関する感想

2016.07.04記事「長期にわたる趣味単純作業における抵抗の状況的変化」で締め切りギリギリ症と私の長期にわたる無味乾燥単純作業において同じような抵抗の対比が見られることを対照させました。

それをポンチ絵にすると次のようになります。

抵抗の時間的対比と状況的対比

締め切りギリギリ症では内心の抵抗が長時間つづき、最後に抵抗を弱めます。

私の単純作業体験では内心の抵抗が「目も眩むような残作業量があり、出来るかどうか判らない状況」では大変強く、「残作業量はメドがついて、自分で出来ると確信した状況」では消失しました。

二つの例は大変よく一致していて、ほとんど同じ現象であると考えることができると思います。

実際に私の単純作業の進行状況を見ると、最後の段階で火事場の馬鹿力みたいなエネルギーが生まれ、膨大作業が短期間に行われています。

千葉県小字データベース作成作業経緯

この単純作業の最初は千葉市を対象に行ったのですが、2か月かけて約3600小字の電子化を完成させて大感動した憶えがあります。それだけ抵抗が強かったのです。

しかし、1年後の最後の1か月では1日で3600を超える小字電子化を行った時もあります。

抵抗が無くなれば能力の発揮は驚くべきものがあります。


さて、このような抵抗の時間的対比と状況的対比をみて次のような感想を強くもちましたので、メモしておきます。

●「内心の抵抗が最初の長時間は強く、最後の短時間は弱いこと」及び「内心の抵抗が残作業量が多い時は強く、残作業量が少なくなると弱いこと」に関する感想

1 内心の抵抗(つまり自分自身が実施する邪魔行為)は最後まで完全100%実施しないで、最後は抵抗を弱めることがその特性として認識できると考えます。

笠原敏雄さんの説明するように、内心は抵抗により本人に計画的で自発的な取り組みは苦痛であることを教えこもうとしていることは確実です。

それは、内心が抵抗により本人の計画的自発的な取り組みを完全に阻止しようとしていることではないことであり、それは大変重要な情報であると考えます。

「抵抗の対比」という概念がそもそも、完璧な抵抗を意味していません。

2 内心は最後の肝心要の相(時間、状況)では抵抗を弱めるのですから、実生活では内心に苦しめられることはあっても、活路は必ずあると考えることができます。

内心の抵抗に遭遇しているときは、その抵抗に抗して物事を計画的自発的に取り組むことは大変な困難を伴います。

しかし、いつか相(時間、状況)が変化し、必ず内心の抵抗が弱まり、活路が開け、明るい前途と希望が生まれる時期が来るということです。

自分の力に対して誰でも信頼と楽観を持つことができる心理面における根拠がここにありそうです。




2016年7月4日月曜日

長期にわたる趣味単純作業における抵抗の状況的変化

プラス思考実験では抵抗に逃げられてしまったようです。

「実験」というお遊び的な取り組みでは期待通りの成果にはならなかったということです。

実際の趣味活動では大いなる抵抗に合っていて、それを過去に記録していますので、そのメモを「幸せを拒む病」に即して検討してみます。

次のメモはブログ花見川流域を歩く番外編の2016.04.03記事「趣味単純作業における睡魔とその対処法」と2016.04.04記事「睡魔現象の意義」に掲載したものです。

……………………………………………………………………
丸1年かけて千葉県地名大辞典(角川書店)付録小字一覧を電子化して、千葉県小字データベースを作成しました。

その間、長期の無味乾燥単純作業(パソコン入力作業)を継続するためにいろいろな手法を編み出しました。

1 作業の効率化のための工夫を絶えず考えて、小さな工夫でも面倒がらずに実施する。
→工夫することに気が紛れて、いつの間にか作業が進展します。ensembleというソフトを導入した時は実際に特段の効率化がはかられました。

2 頭脳をさして使わない手作業であるので、その作業中の「空いた思考空間」を利用して、別のテーマについて思考する。
→いろいろな思考を展開することができました。また、それで気が紛れて、いつの間にか作業がすすみました。

3 作業中に音楽を聞いて、それを愉しみにする。
→好きな音楽を聴けると思うと、単純作業の拒絶感も少し治まります。

などです。

しかし、眠気には大変悩まさせられました。

毎日、毎日睡魔に襲われるので、その原因と対策についてメモを取りました。

●睡魔の原因に関わる項目
1 前夜の睡眠時間
2 体調
3 作業の単純性
4 作業意義の理解度
→ぼんやり作業に入った時は眠気が激しい?
5 作業の無限継続感
→無限に単純作業が続くと感じると眠くなる。

●睡魔防止策
1 睡眠をたっぷりとる
2 体調管理をしっかりする
3 長時間同じ単純作業が続かないように、工夫する。
4 作業の意義をよく確認してから作業に入る
5 一連作業の区切りを明確にして、一覧表等で作業進捗状況を見える化する。

●睡魔に襲われた時の応急措置
1 睡魔に襲われた時、深呼吸して作業に特段に意識を集中してみる。
2 室内の温度を非快適の方向に調整して、作業環境を劣悪にして、それに耐えるようにして作業する。
3 菓子等を口に入れて、口内に刺激を与える。
→飲み込まないで、刺激を与え続ける。
4 お茶や水を飲む。
5 姿勢をよくする。
→背筋を意識して伸ばして作業する。
6 休息を適時とる。
→1時間に5分程度の定期休息のほか睡魔が襲った時に1~2分休む。

さて、この徹底して悩まされた睡魔も、全体の作業分量が残り2割程度になると、つまり、ほぼ確実に作業を完結できることが予想された時、ものの見事に消失しました。

作業の先が見えたとたんに睡魔現象が私から雲散霧消したのです。

それからは毎日、睡魔に悩まされることなく、単純作業に集中できました。

これで、睡魔がなぜ存在していたのか、その本質が少しわかってきました。



睡魔の劇的消失から、睡魔現象の意義がよくわかりました。

睡魔現象の意義について次にまとめました。


睡魔現象の意義

睡魔現象の真の原因は前夜の睡眠時間、体調、作業の単純性、作業意義の理解度、作業の無限継続感などではなく、自分の中にある心の仕組みとしての課題設定(抵抗設定、負荷設定)にあったのです。

単純作業には睡魔という単純な課題(抵抗、負荷)が設定されたということです。

おそらく、人が生きるうえでのすべての活動に、それにふさわしい課題(抵抗、負荷)が内部的に設定されていて、意識するかどうかは別ですが、その課題克服(解決)が、生活そのものなのだと思います。

……………………………………………………………………
1年間かかった単純作業は苦痛そのもので、それを緩和するための工夫は以上にメモした通りです。

そして、感動的に体験したことは、個人で行うなどとんでもないと考えていた作業が「完成出来る」と確信できたとたんに、睡魔現象が霧散したことです。

それを上記表のように、心の中にある抵抗勢力の妨害が、抵抗が失敗したと判った瞬間に抵抗を止めたことであると理解しました。


このメモで書いたのと同じような抵抗の強さの時間的変化曲線が笠原敏雄著「幸せを拒む病」に出ていて次のような説明をしています。

抵抗の強さ曲線
笠原敏雄著「幸せを拒む病」から引用

「時間の余裕がある時には着手が難しいのに対して、締切りまぎわになるとそれが急速に容易になるという変化は、…時間的ないしは状況的対比に当たります。

締切りまぎわまでの長い時間と締切り直前の時間帯とを対比させ、内心が抵抗の強さを一変させるわけです。

したがって、この課題を先送りしてきた理由は、「計画に従って自発的にとり組むことは自分にとって苦痛だ」と、内心が自分の意識に思い込ませることにあったということです。

裏を返せば、本当は、時間の余裕のある段階から、その課題にじっくりととり組み、よいものにしたかったという、強い願望があったことになるでしょう。」(笠原敏雄著「幸せを拒む病」から引用)


締め切り間際まで着手が難しい現象は内心が長い時間と直前の時間を対比させて、長い時間では抵抗を強くし、直前の時間では抵抗を弱めて、結果として計画的に物事を進めることは苦痛だということを思いこませようとしているという説明です。

この説明と同じ説明を私の体験にも当てはめることができると考えます。

つまり、次のように説明できると考えます。

私の内心は、残作業量が膨大に見えている状況と残作業量が確実に消化できる状況とを対比させ、抵抗の強さを一変させた。

残作業量が膨大に見える状況では抵抗を強くし、残作業量が確実に消化できる状況では抵抗を弱めて、結果として計画的自発的に作業に取り組むことは苦痛であることを思いこませようとした。

抵抗がどのようなものであるか、その一端を解釈できました。

2016年7月3日日曜日

プラス思考実験結果の追加考察

2016.07.02記事「プラス思考実験」で、プラス思考が「出来てしまい」、プラス思考が難しいという笠原敏雄さんの解説とは正反対の結果となってしまい、次のように書きました。

……………………………………………………………………
密かに期待した「不安がよぎること、悪い記憶や予測が意識に浮かび上がること、意識が暗雲に覆われてしまうこと」が発生しません。

30分ほどプラス思考を発展させてから終わりにしました。

「確かにプラス思考は難しく、笠原敏雄さんの言う通りです」という予定調和的記事が書けない状況になってしまいました。
……………………………………………………………………

反応を得られず、予定調和的記事が書けないので、いろいろ理屈をつけて、自分なりの解釈(釈明)を書きました。


この記事を書いた翌日の今(2016.07.03)、次のような疑惑が頭の中に浮かび上がりましたので、メモしておきます。

● 「症状の退避」の可能性

「幸せを拒む病」には「症状の退避」という概念が説明されています。

これは次のように説明されています。

「劇的な治療の成功に見えたものは、実は、真の原因が意識に表出するのを嫌って、内心がその手がかりである症状を、積極的に引っ込めてしまったということです。」

「真の原因に関係する出来事にちょっとふれただけで、手がかりを抹消してしまうかのように、おそらく内心が、症状を一瞬のうちに消し去ってしまっていたのです。」

これは著者の療法における現象であって、単なるプラス思考実験で起こるか否かわかりません。

しかし、私がプラス思考が出来て、なおかつ反応が無かった理由として「症状の退避」と同じような現象があった可能性を疑ります。

つまり、私は密かに不安等の反応の発生を期待しながらプラス思考をおこなったのです。

私の意識は注意深く内心の反応を観察していたのです。

その時反応を起こす原因(内心)が意識に表出することを嫌って、反応を積極的に引っ込めてしまったのではないかという疑いを持ちます。

もし、あまり切実性のない思考(プラス思考実験)で、反応を出してしまえば、その反応は意識に観察されてしまい、このブログで公になってしまいます。

反応を司る原因(内心)としては安易に誘き出されてつかまってしまうことになり、戦術的に好ましい対応となりません。

そこで、私の中の内心は、この際は反応を出さないで、意識にはプラス思考を自由にさせておいて、笠原敏雄説と矛盾させるほうが好ましいという戦術をとった可能性があります。


このように考えると、反応をいかに浮かび上がらせ、それを観察するかということが私(この学習をしている私の意識)の最初の大きな課題となります。

そのためには感情の演技を本格的に行うしかありません。

花見川風景

2016年7月2日土曜日

プラス思考実験

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版、2016.06)第1章「身近な出来事に潜む"幸福否定"」の中に「”プラス思考” の難しさ」という小見出しがあります。

そこでは次のことが語られています。

プラス思考という考えかた自体は悪くないのですが、問題は、それが、言われているほど簡単なことなのかどうかという点にあります。

たとえば、特に用事がない時に、一日中何もせずにリラックスした状態で、眠らないようにしながら、自分にとってプラスになることを考え続けてみてください。

自分が抱えている問題が解消することでも、病気が治ることでもいいですし、同僚から評価され
ることでも、大切な相手から愛されているということでもいいでしょう。

それを、単なる空想ではなく、なるべく現実的に実感を伴って考えるようにするのです。

空想的になりやすいので、その場合には早く戻す努力をします。

試してみればすぐにわかりますが、最初のうちはできても、しばらくすると不安がよぎるようになり、次第に悪い記憶や予測が意識に浮かび上がり、しまいには、意識が暗雲に覆われてしまうことが多いはずです。

それと並行して、頭痛や腹痛や便意が襲ってきたり、いつのまにか眠り込んでしまったりすることも少なくありません。

単なる空想であれば、しばらくは続けられるでしょうが、それでも長くはもちません。

いわゆる楽観的な人であっても、現実的に前向きの方向に考え続けるのは非常に難しいのです。

ところが、悪いことであれば、いつまでも考え続けることができますし、その時に「反応」が出ることもありません。

この大きな違いの原因は、どこにあるのでしょうか。

いずれにせよ、人聞は一般に、悪いことを考えるのは簡単であるのに対して、自分にとってプラスになることを実感を伴って考えるのは、なぜか非常に難しいことがわかります。

以上のことからわかるように、通常の「プラス思考」という方法では、自分を変える力にならないということです。」

ここで書かれている方法で実際にプラス思考実験をしてみました。

空想的にならないで、現実の感覚を持ちながら、これからの生活が好転する事態を考えてみました。

趣味活動、健康、お金、家族、・・・

出来るだけ具体的状況のなかで、このように好転したらうれしい、このようにしたら好転するかもしれない・・・

ここでその具体的な思考内容を詳述することは省きますが、…

次から次へとプラス思考が発展してしまいます。

密かに期待した「不安がよぎること、悪い記憶や予測が意識に浮かび上がること、意識が暗雲に覆われてしまうこと」が発生しません。

30分ほどプラス思考を発展させてから終わりにしました。

「確かにプラス思考は難しく、笠原敏雄さんの言う通りです」という予定調和的記事が書けない状況になってしまいました。

なお、趣味活動、健康、お金、家族、・・・はもちろんそれぞれに課題があります。そしてその課題をふくめてそれらの好転を考えたのですが。

笠原敏雄さんの幸福否定説によれば、反応は必ず出るはずですから、私の思考実験がどこかで失敗したのだとおもいます。

反応がでるような思考をしなかったということです。

あるいは、私のプラス思考実験が笠原敏雄さんが上記引用文で想定した思考であるならば、「人聞は一般に、悪いことを考えるのは簡単であるのに対して、自分にとってプラスになることを実感を伴って考えるのは、なぜか非常に難しい」けれど、私はたまたまかもしれないが、プラスになることを考えることができた、とうことになります。

思考実験が失敗した理由、あるいはたまたまかもしれないけれどもプラス思考ができた理由は、私の場合、その理由はすぐに見つかります。

私は毎日早朝散歩を1時間ほど行っていて、その時間は単純な風景・自然観察やフィジカル向上を目的にするのではなく、メインは思考活動です。

自分の夢(希望)をリストアップしてその実現方策を考えるという思考をもう数年間毎日毎日1時間行ってきたのです。

プラス思考の徹底した訓練を行ってきたのです。

単純なプラス思考そのものの訓練ではなく、思考結果を生活に投影して生活改善を図ってきています。

実践的プラス思考はある意味で、お手の物ということなのだと思います。


ですから、私の場合次のようなことが考えられます。

1 プラス思考のパターンが強く形成されているため、実験が失敗した。(空想的思考に終始した。)

2 一般よりプラス思考が身に着いていた。

なお、早朝散歩を始める数年前、あるいはもっと前の私は、笠原敏雄さんのいうとおりいつも「不安がよぎること、悪い記憶や予測が意識に浮かび上がること、意識が暗雲に覆われてしまうこと」が日常の思考であったことは具体的体験としてよく覚えています。



このプラス思考実験から次のような感想をもちました。

1 笠原敏雄さんの言う「人聞は一般に、悪いことを考えるのは簡単であるのに対して、自分にとってプラスになることを実感を伴って考えるのは、なぜか非常に難しい。は自分の過去体験から間違いないと断定できます。

2 しかしプラス思考は時間をかけた訓練でそれなりに身に着けることができると考えます。

3 プラス思考を身に着けることが可能であるからこそ、笠原敏雄さんの具体的方法(感情の演技)も有効であると考えます。

4 笠原敏雄さんを知らない過去において、私は笠原さんが言うところの「グズを治す本」や生活改善技術を学習してプラス思考をある程度習得していた可能性を排除できません。

5 笠原敏雄さんは「グズを治す本」や生活改善技術は役立たないと指摘していますが、それは笠原敏雄さんが自ら行う心理療法に限ったことで述べているのだと理解します。

6 心理療法とかかわらない一般人の生活において、「グズを治す本」や生活技術を学習することが役立つか、役立たないかについて、笠原敏雄さんは専門的検討対象にしたことはないと理解します。


プラス思考実験において反応を捉えることが出来なかったので残念ですが、感情の演技では必ず捉えられると思いますので、次の実験に期待します。

なお、日常の生活で自分なりの反応を体験していますので、それは別記事で説明します。

花見川早朝風景 (弁天橋から下流)

2016年7月1日金曜日

「幸せを拒む病」の電子化と通読

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版、2016.06)を電子化して、全体を通読しました。

電子化した画面

本は裁断してしまったので、もう利用しません。

パソコンモニターで読めるようになり、自分にとっては紙をめくって読むよりはるかに快適になりました。文字の大きさなども自由に変えられます。

読むスピードも、それに伴う思考の湧き方も改善されました。

全体を通読して次のような感想を持ちました。

1 この学習ブログを作った目的である、趣味活動で自分が本当にしたいことでなかなかそれが実現しないことをこの図書で書いてある方法を使って確かめてみる。

この本を通読する過程で、自分がしたいことで、いつも忘れてしまうことを思い出すことができ、それが本当であるか、この本の方法に従って確かめてみます。

2 「反応」、「感情の演技」の学習を深め、生活スキルとして身に着ける。

3 過去から現在まで、自分が取り組んでいる心の整序技術と考えられるもの(※)が、幸福否定現象の緩和とどのように関わるのか、関わらないのか検討してみる。

※ 例えば
・自分の夢を書き出して、日常的にその実現を考える。
例 ブログ花見川流域を歩く番外編2016.02.15記事「私の墨書土器類似活動
ブログ花見川流域を歩く2015.01.15記事「2015年ささやかな夢リスト 趣味生活における埋土種子群落

・グッド&ニュー
例 ブログ花見川流域を歩く2016.01.03記事「趣味活動における「グッド&ニュー」

・趣味活動における内部観察
例 ブログ花見川流域を歩く番外編2016.04.03記事「趣味単純作業における睡魔とその対処法
2016.04.04記事「睡魔現象の意義」など

学習の目的がかなり明確になりました。

本の文章の枝葉末節で生まれる感想はあまり検討しないで、上記3つの感想にできるだけ関わりたいとおもいます。

なお、著者の専門である心理分野は私にとって、全くの門外漢ですから、著者が盛んに「常識に照らして考えれば、幸福否定という考えかたは、このうえなく奇妙な人間観であり、壮大な妄想体系のようにも感じられるでしょう。」などと述べていることは実感が湧きません。

幸福の否定学説は全くまっとうな考えであり、同時にノーベル賞級あるいはそれ以上の人類史上の革命的学説に通じると思います。