2016年11月29日火曜日

感情の演技に類似する有用な活動

感情の演技似活動(感情の演技もどき?)をして、その効果があるように感じています。

2016.11.26記事「感情の演技似活動とその効果」参照

その活動の中で、デジャブを感じました。

怒りを感じた時に、相手が喜ぶことを考えるだけで(実際に相手を喜ばすならばなおさらのこと)、怒りが収まるという心操作技術と感情の演技が似ているという感想です。

この怒り対処の心操作技術は、職業生活で実際に大変有効であった体験をしています。

感情の演技は、自分の喜び(うれしさ)を感じ、自分の内心が行っている否定行動を治めようとしています。

一方、怒り対処法は相手の喜び(うれしさ)を感じ、自分の怒りを治めようとしています。

自分の心の操作として、どこか類似性を感じてしまいます。

2016.09.05記事「怒りを治める方法と感情の演技の相似性」参照

以下、感想レベルでその類似性を列挙してみました。

(感情の演技の例として、締め切り間際まで仕事ができない幸福否定を例としました。)

心操作面で似ている要素

●意識の視野の狭さを広げる

・二つの技術ともに客観的に状況を見てみる機会がうまれる。

・自分の意識の視野の狭さがわかる可能性がうまれ、自分の視界がひらける。

・怒りを感じる自分の心の狭さを感じれば、怒りがばかばかしくなる。

・締め切りまでにするべき活動がうれしいことであると感じれば、さぼることに汲々としていることがばかばかしくなる。

●固まった意識をほぐす

・二つの技術ともに固まった意識(ルート)をほぐし、別ルートで思考する可能性が生まれる。

・別の回答があるかもしれないと考える機会が生まれる。

●内在するうれしさの種を勇気づける、育てる、助長する。

・二つの技術ともに、隠れているうれしさの種がみつかり、それに着目する可能性が生まれる。

●自分や内心から離れている

・相手の喜ぶことを考えることは自分自身のことを考えることから離れることであり、怒りから離れられる。

・うれしい感情を味わうことは幸福否定の感情(内心)から離れること。

●怒りや幸福否定を考えること以外に使う時間が生まれること

・怒りや幸福否定以外のことに時間を使うことにより、その時間だけ怒りや幸福否定から離れることができる。

……………………………………………………………………
追記 2016.11.30

●有用な記憶を思い出す機会がうまれる。

・感情の演技似活動も怒りを治める心的技術も、その過程の中で忘れていた(忘れさせられていた)体験記憶を思い出し、生活の整序に活用できるようになる、ということもあるような気がしていますので、メモしておきます。

・感情の演技や怒りを鎮めることが必要な時は、自分の豊かな記憶にアクセスできないような頭脳上の制約があるように感じています。


風景

2016年11月27日日曜日

感情の演技似活動に関する感想

2016.11.26記事「感情の演技似活動とその効果」で書いたように、自分スタイルで感情の演技もどき活動を行っています。

この活動を行うなかで次のような感想をもちましたので、メモしておきます。

うれしさという感情をリアルかつ意識的に生まれさせる(味わう)ということが思った以上に困難であるということです。

困難の側面は2つあるように感じています。

1 うれしさの素となるイメージを想起した時、それに対応するうれしさ感情を発生させることが技術的に困難であるという側面。

2 うれしさの素となるイメージを想起した時、抵抗の結果それに対応するうれしさ感情を発生させることが困難であるという側面。

1は肉体的運動能力でも、知的思考能力でもだれでも訓練をうけなければその能力は低く、訓練をうければその能力は向上するという事柄と対応する問題です。

誰でも、意識的に特定感情を発生させる能力を訓練すれば、その能力は向上すると思います。

しかし、一般人は私を含めて、特定感情を意識的に発生させる能力開発訓練を行っていません。

ですから本来有している自分の感情発生能力レベルより低いレベルでしか感情を発生できないと思います。

そのような未訓練による感情発生能力の低レベルのため、うれしさ感情を発生できないという問題があります。

2は幸福否定理論の最重要ポイントである心の事象(幸福否定)に関連する事柄です。

うれしさの素に抵抗があるから(内心の幸福否定機能が発揮されているから)こそうれしさ感情が率直に生まれないということです。

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)では、抵抗によりうれしさの素にたいして率直なうれしさ感情を発生できないので、逆にそのことから、そのうれしさの素が本物のうれしさの素であるということが書かれています。


直感的には1と2は連動しているように感じます。

感情の素にたいしてその感情を率直に発生させる能力を訓練によって技術的に向上させることは、肉体運動能力や知的思考能力などと同じように可能であると考えます。

そのような感情操作能力が向上すれば、内心による幸福否定(つまり内心による感情操作)の領域は狭まると思います。内心の活動が制約されると思います。

一方、内心の抵抗下における困難な感情発生を試みると(感情の演技を行うと)、感情操作能力全般も向上するに違いないと思います。

心能力(感情操作能力)の訓練というものが一般に行われていないため、また内心による抵抗というものがあるために、感情の演技を行うことは困難を伴います。すっきりした活動になりません。

しかし困難ですっきりしないのに、いつの間にかうれしさの素を希求する方向に生活がむかうのですから不思議です。

感情の演技をすることと生活改善がすすむことの間の因果関係について深く学習したいものです。



自分の夢を文章に書きだす活動とか、グッド&ニュー活動が生活や職場の改善に資する理由と感情の演技の効果とは類似のものだとますます確信しました。

自分の夢を書くとき、希望に包まれたうれしさ感情を味わっています。

グッド&ニューをしているとき、ほのかなうれしさ感情を味わっています。

風景

2016年11月26日土曜日

感情の演技似活動とその効果

1 感情の演技似活動

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版、2016.06)で紹介されている感情の演技を夏頃から自分なりに実践してきました。

ただし、この活動が本当に笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版、2016.06)で紹介されている感情の演技そのものであるのか、それとも感情の演技に近い(似た)別の活動であるのか、あるいは感情の演技とは程遠い別種自己暗示活動であるのか、自分では判断ができません。

とりあえずは感情の演技と全く無関係でもないだろうと考え「感情の演技似活動」として捉えておきます。

2 活動の実相

次のような活動を毎日しています。

私には趣味活動(ブログ活動)のまとめ(ブログ記事の論説化)をしたいという願望(夢)が以前からあるのですが、幸福否定現象により、なかなか実現しません。

そこで、ブログ記事をテーマ毎に論説としてまとめ、それを体系的に集成したサイトを作った時の「うれしい感情」を心に生起させることを毎日しています。

主に起床前の寝床で、散歩中に、書斎でブログ記事を書いている途中で、1日に数回です。

ブログをまとめた時の「うれしい感情」をできるだけ実感を持って思い出させる(心に生まれさせる)努力をしています。

しかし、その「うれしさの実感」が過去にあった飛び上がるようなうれしさの実感とはなんだか違うような気がしています。

ピンボケの「うれしさ」のような気がして仕方がありません。

ピンボケではない「うれしさ」の感情を確認しようとして、過去の他の実例としての飛び上がるようなうれしさの実感を思い出そうとしても、それができません。

飛び上がるようなうれしさの感情を本当に体験したことがあるのか、その辺の体感的記憶も不確かになってきてしまいます。

ともあれ、ブログ活動をまとめたサイトをつくるという夢が実現したときのうれしい感情を浮かび上がらせようと毎日夏頃から心の活動を1日数回しています。

夢実現のうれしさをささやかレベルではありますが、日頃味わっているといことになります。

3 活動の効果

この感情の演技似活動の効果と考えられますが、最近ブログ記事まとめ意欲がある臨界点に達し、過去記事のふりかえりを行いだしました。

ブログ「花見川流域を歩く」2016.11.19記事「ブログ花見川流域を歩く 6年間のふりかえり」など参照

ブログ記事のまとめ方やその表現方法などは特設WEBページを設けて作業を進めています。(仮称 花見川学習ミュージアム 非公表)

感情の演技似活動とその効果は双方とも虚弱なものですが、その関係性(相関性)は強固であると直観しましたので、それをこの記事でメモしました。

4 技術メモ 夢イメージとうれしさ感情

ブログ記事をまとめたサイトをつくるといううれしさ感情を生起させるときに、ブログ記事をまとめたサイトの構造とか、情報量とか、情報の質レベルとか、見栄えなどを総合的かつ一瞬でイメージします。

そのような完成物(夢)のイメージによって「うれしさ」の様子が違ってくるような感じをもちます。

うれしさ感情の強弱やうれしさの種類が違ってくるような感じがします。

うれしさの素である完成物(夢)のイメージを具体化する(設計する)ことが大切であると考えます。

一方、ブログ記事まとめサイトの構築設計では、自分のうれしさ感情を盛り込みながらそれを作業することが大切だと思います。

感情の演技ではうれしさ感情を生起させるのですが、その素(対象)となる事物や出来事などのイメージをできるだけ具体化するということも大切であると感じました。

私のうれしさ感情がピンボケであると感じるのは、その素がピンボケであるからかもしれません。

風景(11月の降雪)

2016年11月22日火曜日

内心の社会性

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版、2016.06)の第1章では「身近な出来事に潜む"幸福否定"」と題して次のような事例が述べられています。

● 幸福否定が潜む身近な出来事 事例

1 締め切りまぎわにならないと課題に手をつけられない現象

2 部屋の片づけも、つい先延ばししてしまい、なかなかできない

3 始業時間や待ち合わせの約束に必ず遅れる遅刻の常習

4 自分が本当にしたいと思っていることを実行しようとする場合、それが難しい

5 青木まりこ現象(書店に入ると便意を催す)

6 自分の好きなものをはっきり言うことはよくないと思うこと

7 自分の食べたいと思っているものを食べることはよくないと思うこと

8 自分が幸福になる資格はないと思うこと

9 引っ越しうつ病

10 昇進うつ病

11 マリッジ・ブルー

12 マタニティー・ブルー

13 内縁関係のふたりが、妻の要望に従って婚姻届を出したとたんに、妻が心身症を発症

14 結婚して子どもがいる夫婦が、そのままではふたりとも心身症状が続くため、意を決して、生活はそのままで離婚届けだけを出したところ、それまでの症状が治まった(逆事例)

15 洋服や電子機器など自分がほしいと思っていたものをようやく購入しても、しまい込んでしまって使わなかったり、何かの理由をつけて、リサイクル・ショップに出してしまう

これらの事例を素人なりに眺めてみると、全て社会と個人との関係における出来事であるように感じます。

純粋な本能次元の出来事でないことは明白です。

生命を維持するために必要な原始的食欲、排便欲、睡眠欲、性欲などに関わっているものではありません。

社会との関わりの中で初めて生まれている現象が幸福否定です。

逆説的に言えば、社会との関わりが希薄になれば、幸福否定現象が生まれる必然性が希薄になるように感じます。

笠原敏雄著「幸福否定の構造」(kindle版)では「晩年寛解」という概念を紹介していて、分裂病に関して「老年 に なる と、“ ふつう” の 人 でも、 第一線 を 退き、 多少なりとも 社会的 責任 から 解放 さ れ、 一人前 扱い をさ れ ず に すむ よう に なる ので、 それ に 倣っ て、 その 分 だけ、 それ までの“ 警戒” 状態 を 多少 緩める こと も ある。」と述べ、「半人前扱いを公認する環境に置かれれば、老年でなくとも、晩年寛解と同じような現象が起こりやすい。」と説明しています。

この説明は幸福否定現象が社会との関わりが必須条件であることを語っていると理解します。

幸福否定という観点から個人と社会の関係は次のようにイメージできるのではないかと想像します。

幸福否定を起こす内心は社会的に繋がって機能している?

無意識が現代社会にまだ十分に知られていない方法で密接に繋がっていて、その中で個人レベルの幸福否定現象が生起しているのだと考えます。

無意識(内心)が社会全体と個人の関係を熟知していて、その総合的な情報に基づいて幸福否定現象を発生させているように想像します。

人社会での役割が大きければ(青年期~中高年期)、無意識が社会と緊密に連絡していて、その分幸福否定現象が発生しやすいと想像します。

人社会における役割が大きくなければ(幼少年期、老年期)、無意識の社会との連絡が疎となり、その分幸福否定現象が発生しにくいと想像します。


2016年11月15日火曜日

幸福否定現象の一環としての記憶消去

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)では幸福否定現象の一環としての記憶消去が随所で語られています。

例えば次のような記述がみられます。

……………………………………………………………………
人聞は、何らかの出来事や状況に直面した時、それが幸福感を呼び覚ますものかどうかを、つまりは、それが自分の進歩につながることかどうかを、心の奥底で一瞬のうちに正確に判断します。

そして、それが幸福感を呼び覚ますものであれば、その瞬間にその幸福を避けようとする態勢に入ります。

その時、「内心」は次のふたつの戦略を同時並行的に使います。

ひとつは、いわば幸福に水を差す形で、心身の症状を瞬時に作りあげたり、行動の異常を起こしたりすることです。

もうひとつは、幸福感を呼び覚ます出来事や状況の記憶を、意識から一瞬のうちに消し去るという操作をすることです。
……………………………………………………………………

自分毎として幸福否定現象を観察したとき、記憶消去はありうる、あったに違いないと理解するのですが、具体例を思い出すことはしませんでした(できなかった?)。

ところが、趣味活動の中で、これが「記憶消去」かと本日感じたことがありますので、メモしておきます。

私の趣味活動では花見川や下総台地や千葉県を対象に地形、考古歴史、地名などについて探求的学習を行ってきて、随時ブログ記事にしてきています。

自分毎ながら随分と面白いことを考えつくものだと自己満足しています。

そこで、日々のブログ記事をまとめて論説にしたいと考えるのですが、それに対してアーダ、コーダという屁理屈をつけていっこうにしようとしません。

自分にそうしたことをするだけの基礎的力があることは確実です。

しかしそれが出来ないのですから、幸福否定現象の一環であると考えています。

この幸福否定を緩和しようという算段でこの数日ブログ記事をまとめる活動をし出したのですが、その中で、1年前にもほとんど同じ発想で同じ活動を始めて、過去5年間のブログ記事リストを作成し、その記事テーマの概要を作成した資料を「発見」しました。

1年前に多大な労力をかけてブログ記事とりまとめ作業をかなりしているのです。

その記憶が完全に消去されていたことに気が付かされたのです。

単なる物忘れではなく、自分の趣味活動を発展させるためには重要であるがために意図的に消去されたと実感できました。

自分にとっては重要な気づきとなりました。

記憶から消去されていたブログ記事テーマをまとめた資料




2016年11月11日金曜日

幸福否定現象としての能力発揮抑制症が存在するのでは?

締め切り間際症(締め切り間際にならないと仕事(勉強)に手が付かない幸福否定症状)に関連して、次のような類似(関連)の幸福否定症状が存在するに違いないと直観しますので、その想定をメモしておきます。

私自身の過去の体験から次のように直観します。

締め切り間際にならないと仕事(勉強)に全く手が付かない症状という典型例を卒業して(*)、仕事(勉強)をある程度計画的に行う場合に、自分の本来能力が発揮できなくて、質の低い仕事(勉強)しかできないという症状です。

*社会の中に深く組み込まれると、単純な締め切り間際症は少なくなり、「懲りて」「学んで」あるいは強制力配下に身を置き、誰でもある程度は計画的に仕事(勉強)をするようになると考えます。

「本来自分が有している能力と比べて質の低い仕事しかできない」という自分の評価は、その真っ只中で正確に判断することは困難です。

しかし高齢になり過去を振り返ると、締め切り間際症と同じように、能力発揮抑制症が存在するように感じます。

幸福否定現象として、能力発揮抑制症があるように感じます。

幸福否定の一環として、本来有している能力の発揮を抑制して、それにより自分の価値を低めておく、自信を失わせるという内心の操作があるように直観します。

内心は不都合な(つまり自信をもてる、価値を高められるようなことに資する)記憶を消すことができるとのことですから、記憶を消すだけではなく、一般能力発揮(情報演算能力…分析力、総合力、とりまとめ力など)である脳機能の抑制も可能ではないかと想像します。

自分の過去体験を思い出すと、仕事はある程度計画的に取り組んだのですが、仕事の質が自分の本来能力よりかなり低い結果になった場合があり、幸福否定現象として捉えるとガテンがゆきます。

幸福否定現象としての能力発揮抑制症は、私個人特有のものではなく、人一般にあるように感じます。職場で一緒であった人々の仕事ぶりをふりかえって、そのように感じます。

締め切り間際症などより、能力発揮抑制症のほうが社会的にはるかに重大な問題です。

もし、感情の演技などの手法により締め切り間際症が「治療」できるならば能力発揮抑制症も「治療」できる可能性が生まれ、その社会的意義の大きさは図りしれないと考えます。

能力発揮抑制が幸福否定現象の一環であるならば、それを測る有効な指標は「反応」ということになります。

能力発揮抑制と反応の関わりがどのように捉えられるのか、今後学習を深めたいと思います。

風景





2016年11月7日月曜日

「幸福否定」とは「うれしさの否定」と理解する

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)の学習をしていて、幸福否定という学説の壮大さ、奥の深さに強く感心しています。

幸福否定の学説は、素人の自分にも、現代社会の再生に関わる根本的な意義を有していると直感できます。

さて、以前2016.10.22記事「損している「幸福否定」」を書きました。

「幸福否定」概念を自分なりに学習してその素晴らしさを感じれば感じるほど、「幸福」という熟語がその概念にピッタリ一致していないように感じたからです。

マスコミ等で幸福という言葉を聞くと、私は「何をもって幸福というのですか?」と必ず質問したくなります。

世の中には幸福と考えられる中に不幸が潜んでいることが沢山あります。その反対に不幸と考えられる中に幸福が含まれていることも沢山あります。

幸福という言葉には、その背景に必ずその言葉を使った人の価値観が控えています。

そして人によって幸福-不幸の判断が異なります。


このような疑問(違和感)があったので、2016.10.10記事「幸福否定が存在しない状況を考えてみる」で、幸福否定の幸福を「したいこと」という言葉で代替してみました。

そのように代替すると、幸福という哲学的・宗教的ニュアンスを帯びる言葉から心理や感情を表現する言葉に置き換えることができると考えたからです。

この時点では幸福=「したいこと」と理解しました。


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参考 引用 2016.10.10記事「幸福否定が存在しない状況を考えてみる」(部分)

1 幸福否定という心の原理が存在しない場合の状況推定

1-1 幸福否定の説明

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)の「まえがき」では幸福否定を次のように説明しています。

……………………………………………………………………
① 自らの「無意識の一部」が、自分が幸福の状態にあることを極度に嫌い、その幸福感を意識にのぼらせないような策を講ずる。

② それと並行して、自分が幸福ではないことを自分の意識に言い聞かせるために、目の前に問題を作りあげる。

③ その結果として生み出されるのが、心身症や精神病という病気であり、行動の異常である。

この一連のしくみをつかさどる「無意識的な意思」のことを、私は“幸福否定”と呼んでいます。
……………………………………………………………………

1-2 幸福否定の原理が存在しない状況の想定

幸福否定という心の原理が存在しない状況を、上記引用文を改変して記述してみます。

なお、幸福という言葉は抽象的で多義的ですから、これを「自分がしたいこと」と言い換えます。

① 自らの「無意識の一部」が、自分がしたいことをしている状態にあることを嫌うことはない。

自分がしたいことをしている達成感や満足感をいつも意識することができる。

② 自分がしたいことができないと自分の意識に言い聞かせることはないので、自分自身が目の前に問題を作りあげることはない。

③ 自分が目の前の問題をつくりあげ、自分の邪魔をすることはないので、それに起因する心身症や精神病という病気や行動の異常は存在しない。

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その後、笠原敏雄著「幸福否定の構造」(kindle版)を読み出し、幸福=「したいこと」ではなく幸福=「うれしいこと」であることを知りました。

「うれしいこと」なら「したいこと」も「幸福と感じる」も含まれる心の状態を表現できる言葉です。

「うれしいこと」は感情そのものですから、その言葉を使う人の価値観や思想を問題にしなくて済みます。

締め切り間際にならないと作業に着手できない幸福否定現象はこれまで「自分のしたいことを自分が否定している」と捉えていました。

しかし、そうではなく「作業を計画的に順調に進めて仕上げるという自分の本来能力が発揮できてうれしいということの否定」であると捉えるようになりました。

古代中国で犠牲坑に何千人もの生身の人間を埋めるのではなく、その代わりに土人形(兵馬俑)を埋めて同じ効用を得るようになったという幸福否定緩和の社会進歩も、「何千人もの生身の人間を殺さないことはうれしいということの否定」の緩和現象であると言い換えることができると思います。

201611.02記事「笠原敏雄著「幸福否定の構造」(kindle版) 人類史における幸福否定緩和の例」参照

うれしさの否定 が含まれる小見出し 笠原敏雄著「幸福否定の構造」(kindle版)

感情の演技も、「したいという感情」ではなく、「できてうれしいという感情」を発生させることとあらためて理解できました。

2016年11月3日木曜日

笠原敏雄著「幸福否定の構造」(kindle版) 権威に頼ることと幸福否定の関係

このブログでは一般解説本である笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)の学習をしていますが、その親本ともいうべき笠原敏雄著「幸福否定の構造」(kindle版)を読んでみました。

その中で自分の趣味活動において大変役立つと思われる記述を見つけましたので、メモしておきます。

自分が権威とみなすものをつくれば認知の歪みが生まれる。

その背景には自分の判断に自信があることを自分に対して否定する幸福否定現象が存在しているという趣旨です。

……………………………………………………………………

自分 が 権威 と 見なす 者 の 判断 に従って、 偽物 と 思え ば それ らしく 見える し、 本物 と 思え ば また それ らしく も 見える。 

その 点 では、 しろうと も 専門家 も、 自分 が 権威 と 見なす 相手 が 違う だけで、 基本 的 には 似 た よう な もの で あろ う。 

人間 の もの の 見え かた や 考え かた には、 この よう な 要素 が 大きく かかわっ て いる ので ある。 

この 種 の 認知 の 歪み にも、 幸福 の 否定 が 関係 し て いる。 

幸福 否定 という 観点 に 立っ た 表現を すれ ば、 人間 は、 自分 の 意識 で 権威 と 見なし た 存在 に 忠誠 を 尽くす ため に、 事物 の 認知 を 積極的 に 歪め、 それ を 自ら の 意識 に 突きつけ て いる、 という こと に なろ う か。 

つまり、 自ら が 頼る べき 権威 を、 何らかの 基準 に 基づい て、 自分 の 中 に 無意識 の うち に 作りあげ て いる という こと で ある。

とは いえ、 なぜ その よう な こと を する ので あろ う か。 

いずれ に せよ、 その 結果 として、 自分 の 判断 は 放棄 さ れる。 

そう する と、 この よう に 手 の 込ん だ 策 を 講ずる のは、 自分 の 判断 自体 を、 あるいは 自分自身 の 判断 に 自信 が ある こと を 否定 する ため、 という 可能性 が 出 て くる。 

結局 は、 自分 が 事実 を 知っ て いる こと を、 自分 の 意識 に対して 否定 し て 見せる ため なのでは ない か という、 妄想 一般 に 共通 する 構造 が ここ でも 浮かび上がっ て くる ので ある。  

笠原敏雄著「幸福否定の構造」(kindle版)から引用

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この記述は図書のなかでは医療や催眠などの文脈の中で語られています。

その文脈自体も興味があるのですが、それより一般論として大変大切な記述であり、趣味活動の参考にしたいと思いました。

幸福否定の学習も、笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)や笠原敏雄著「幸福否定の構造」(kindle版)などについて、権威としてアプリオリな正当視をすることなく、素人なりに、門外漢なりに体験的、論理的にその内容を確かめながら進めたいと思います。

風景



2016年11月2日水曜日

笠原敏雄著「幸福否定の構造」(kindle版) 人類史における幸福否定緩和の例

このブログでは一般解説本である笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)の学習をしていますが、その親本ともいうべき笠原敏雄著「幸福否定の構造」(kindle版)を読んでみました。

幸福否定理論は自分が想像する以上にはるかに壮大なスケールであることに気が付きました。

その中で、人類史における幸福否定緩和の事例が次のように語られていますので、検討してみます。

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人類 の 辿る 道筋     

人間 が、 その よう な 根本的 進歩 (※)を 遂げる のに 長大 な 時間 が かかる こと は、 別 の 側面 を 見る と わかり やすい かも しれ ない。 

人類 の 歴史 を 振り返る と、 人間 は、 特に 人権 という 点 で、 徐々に では ある が 着実 に 進歩 し て き た こと が、 はっきり と 見て取れる。 

周知 の よう に、 秦 の 始皇帝 は、 膨大 な 数 の 兵馬 俑 を 副葬品 として 自ら の 陵墓 に 納め させ た が、 それ 以前 の 時代 には、 支配 者 の 埋葬 に際して犠牲 坑 という もの が 作ら れ、 その 中 に、 場合 によって は 数 千人 規模 の 人間 が 惨殺 さ れ、 埋め られ て い た という( 岡村、 二 〇 〇 〇 年、 一 四五 ページ)。 

全 人口 の 一 パーセント 程度 を 占める に すぎ ない 支配階級は、 残る 九九 パーセント の 民衆 を、 徴用 に せよ 生け贄 に せよ、 ごく 当然 の こと として、 文字通り 使い捨て に し て い た ので ある。 

世界 四大文明 は、 まさに 上位 一 パーセント の ため の もの で あっ た( 鶴 間 他、 二 〇 〇〇 年、 二 一八 ページ)。 

民衆 の 側 も、 多く は それ を、 当然 の こと として、 あるいは、 しかた が ない こと として、 最初 から 諦め て い た ので ある。

 あるいは、 諦め て いる という 自覚 すら なかっ た かも しれ ない。   

かし言うまでもなく 現代 では、 支配 者 側 からで あれ 民衆 側 からで あれ、 これ と 同じ こと は 起こり え ない。 

二 千年 ほどの 間 に 起こっ た、 人類 史上 きわめて 重要 な もの として 位置づけ られる べき こうした 変化 は、 多少 の 起伏 はあっ た し、 これから も ある に せよ、 漸進 性 の もの で あっ て、 後戻り する こと は ない。 

それ は、 個々人 の 本心 の 一端 が 徐々に 意識 に 浮かび上がり、 本心 および 内心 を 包み隠す、 いわば 隠蔽 の ため の 意識 が、 きわめて わずか ずつ では ある が、 本心 に 由来 する 目覚め た 意識 と 入れ替わっ た 結果 なのでは なかろ う か。 

その ため に、 個々人 の 人格 を 尊重 しよ う と する 素直 な 気持ち が、 ごく一部 で あれ 表出 する よう に なっ た のでは ない か。  
 ただし、 現在 の 世界 でも、 その 例外 が ない わけ では ない。 それ は、…(以下略)

笠原敏雄著「幸福否定の構造」(kindle版)より引用

(※ 非唯物論的科学の実現、つまり幸福否定が克服される状況 引用者注)

……………………………………………………………………
この文章を読んだ当初は人権という社会問題が幸福否定とどのように関連するのか、直感的にわかりませんでした。

その後、アーダ、コーダと考えて、この記述を次のように捉えました。

古代中国における社会進歩としての幸福否定緩和例

【人が直面する場面】 社会が徴用や生贄を必要とする状況

【人の本心】 人は粗末に扱うべきではない。

【人の内心】 必要に応じて人を奴隷労働で使い捨てても、生贄として殺してもよい。(人は粗末に扱ってもよい。) 

【人の意識 秦の始皇帝以前】 犠牲抗に数千人規模の人を生贄として埋めることもしかたがない。

↓古代中国における人々の幸福否定の緩和(内心に由来する意識が、人の本心に由来する目覚めた意識に入れ替わる)

【人の意識 秦の始皇帝時代】 犠牲抗に数千人規模の人の生贄の代わりに同数の兵馬俑を埋める。

笠原敏雄著「幸福否定の構造」(kindle版)より作成

多数の生贄が必要であるという社会要請に対して、当初は内心に従って、生身の人を使っていたのですが、時間の経過とともに本心が内心を凌駕して、生贄の代替物として土人形を使うようになったという考えです。

この事例について次のような感想を持ちます。

●内心に由来する意識(人の生贄OK)から本心に由来する意識(人の生贄NO)に変化するためには次のような条件が存在していたと考えます。

ア 多数の生身の人を生贄にするとマイナス影響が大きいという体験とその知識の蓄積

イ 生身の人の代わりに生贄として土人形を使っても同様の祈願成果が得られるという理論の発生(構築)

ウ 土人形の精巧な作成が可能となる焼物技術(兵馬俑技術)の発展

このような社会諸条件が整わないと社会規模での幸福否定の緩和はないのですから、幸福否定の緩和が進むためには膨大な時間と社会の知識、技術等の発展が必要であると考えます。

●この検討のアナロジーで「締め切り間際まで仕事をほっぽらかしておき、締め切り間際になって初めてあわてて仕事に着手する」という幸福否定現象を考えてみます。

この「締め切り間際」現象に対応する幸福否定緩和が、もし将来社会であるとすれば、次のような条件の存在が大切になると考えます。

ア 締め切り間際にならないと仕事をしないクセ(習慣)がそうでない場合とくらべていかにマイナスであるか、リスクが大きいかという知識の増大と普及

イ 締め切り間際にならないと仕事をしないクセ(習慣)を改善するための各種技術の発展
(例 仕事に魅力や興味を覚えさせるような知的生産技術、高度なスケジューリング技術、…)

ウ 締め切り間際にならなくても仕事に着手できるようになる心整序技術の発展
(例 「眠気防止技術」、「一人でできる感情の演技」、…)

エ 社会全体で仕事の仕方が改善され(残業、休暇、育児、…)、仕事をする人の作業に対する意欲が向上する。

オ 社会全体で創造的側面のある仕事が増え、仕事監理面で強制性が減じ、自主性が増大する。


以上の検討から、将来社会における幸福否定現象の緩和には次のような条件が大切であるにちがいないと想像することができました。

ア 当該テーマに関する知識・情報の増大

イ 当該テーマに関する知識・情報の共有

ウ 当該テーマに関する各種技術の発展普及

エ 当該テーマに関する心に関する技術の発展普及

オ 社会制度・しくみの改善発展

カ 社会の創造面における発展

同時に、これらの条件を指標として、過去社会(原始社会、古代社会など)における幸福否定現象(の緩和)について検討してみたくなりました。