2016年11月2日水曜日

笠原敏雄著「幸福否定の構造」(kindle版) 人類史における幸福否定緩和の例

このブログでは一般解説本である笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)の学習をしていますが、その親本ともいうべき笠原敏雄著「幸福否定の構造」(kindle版)を読んでみました。

幸福否定理論は自分が想像する以上にはるかに壮大なスケールであることに気が付きました。

その中で、人類史における幸福否定緩和の事例が次のように語られていますので、検討してみます。

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人類 の 辿る 道筋     

人間 が、 その よう な 根本的 進歩 (※)を 遂げる のに 長大 な 時間 が かかる こと は、 別 の 側面 を 見る と わかり やすい かも しれ ない。 

人類 の 歴史 を 振り返る と、 人間 は、 特に 人権 という 点 で、 徐々に では ある が 着実 に 進歩 し て き た こと が、 はっきり と 見て取れる。 

周知 の よう に、 秦 の 始皇帝 は、 膨大 な 数 の 兵馬 俑 を 副葬品 として 自ら の 陵墓 に 納め させ た が、 それ 以前 の 時代 には、 支配 者 の 埋葬 に際して犠牲 坑 という もの が 作ら れ、 その 中 に、 場合 によって は 数 千人 規模 の 人間 が 惨殺 さ れ、 埋め られ て い た という( 岡村、 二 〇 〇 〇 年、 一 四五 ページ)。 

全 人口 の 一 パーセント 程度 を 占める に すぎ ない 支配階級は、 残る 九九 パーセント の 民衆 を、 徴用 に せよ 生け贄 に せよ、 ごく 当然 の こと として、 文字通り 使い捨て に し て い た ので ある。 

世界 四大文明 は、 まさに 上位 一 パーセント の ため の もの で あっ た( 鶴 間 他、 二 〇 〇〇 年、 二 一八 ページ)。 

民衆 の 側 も、 多く は それ を、 当然 の こと として、 あるいは、 しかた が ない こと として、 最初 から 諦め て い た ので ある。

 あるいは、 諦め て いる という 自覚 すら なかっ た かも しれ ない。   

かし言うまでもなく 現代 では、 支配 者 側 からで あれ 民衆 側 からで あれ、 これ と 同じ こと は 起こり え ない。 

二 千年 ほどの 間 に 起こっ た、 人類 史上 きわめて 重要 な もの として 位置づけ られる べき こうした 変化 は、 多少 の 起伏 はあっ た し、 これから も ある に せよ、 漸進 性 の もの で あっ て、 後戻り する こと は ない。 

それ は、 個々人 の 本心 の 一端 が 徐々に 意識 に 浮かび上がり、 本心 および 内心 を 包み隠す、 いわば 隠蔽 の ため の 意識 が、 きわめて わずか ずつ では ある が、 本心 に 由来 する 目覚め た 意識 と 入れ替わっ た 結果 なのでは なかろ う か。 

その ため に、 個々人 の 人格 を 尊重 しよ う と する 素直 な 気持ち が、 ごく一部 で あれ 表出 する よう に なっ た のでは ない か。  
 ただし、 現在 の 世界 でも、 その 例外 が ない わけ では ない。 それ は、…(以下略)

笠原敏雄著「幸福否定の構造」(kindle版)より引用

(※ 非唯物論的科学の実現、つまり幸福否定が克服される状況 引用者注)

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この文章を読んだ当初は人権という社会問題が幸福否定とどのように関連するのか、直感的にわかりませんでした。

その後、アーダ、コーダと考えて、この記述を次のように捉えました。

古代中国における社会進歩としての幸福否定緩和例

【人が直面する場面】 社会が徴用や生贄を必要とする状況

【人の本心】 人は粗末に扱うべきではない。

【人の内心】 必要に応じて人を奴隷労働で使い捨てても、生贄として殺してもよい。(人は粗末に扱ってもよい。) 

【人の意識 秦の始皇帝以前】 犠牲抗に数千人規模の人を生贄として埋めることもしかたがない。

↓古代中国における人々の幸福否定の緩和(内心に由来する意識が、人の本心に由来する目覚めた意識に入れ替わる)

【人の意識 秦の始皇帝時代】 犠牲抗に数千人規模の人の生贄の代わりに同数の兵馬俑を埋める。

笠原敏雄著「幸福否定の構造」(kindle版)より作成

多数の生贄が必要であるという社会要請に対して、当初は内心に従って、生身の人を使っていたのですが、時間の経過とともに本心が内心を凌駕して、生贄の代替物として土人形を使うようになったという考えです。

この事例について次のような感想を持ちます。

●内心に由来する意識(人の生贄OK)から本心に由来する意識(人の生贄NO)に変化するためには次のような条件が存在していたと考えます。

ア 多数の生身の人を生贄にするとマイナス影響が大きいという体験とその知識の蓄積

イ 生身の人の代わりに生贄として土人形を使っても同様の祈願成果が得られるという理論の発生(構築)

ウ 土人形の精巧な作成が可能となる焼物技術(兵馬俑技術)の発展

このような社会諸条件が整わないと社会規模での幸福否定の緩和はないのですから、幸福否定の緩和が進むためには膨大な時間と社会の知識、技術等の発展が必要であると考えます。

●この検討のアナロジーで「締め切り間際まで仕事をほっぽらかしておき、締め切り間際になって初めてあわてて仕事に着手する」という幸福否定現象を考えてみます。

この「締め切り間際」現象に対応する幸福否定緩和が、もし将来社会であるとすれば、次のような条件の存在が大切になると考えます。

ア 締め切り間際にならないと仕事をしないクセ(習慣)がそうでない場合とくらべていかにマイナスであるか、リスクが大きいかという知識の増大と普及

イ 締め切り間際にならないと仕事をしないクセ(習慣)を改善するための各種技術の発展
(例 仕事に魅力や興味を覚えさせるような知的生産技術、高度なスケジューリング技術、…)

ウ 締め切り間際にならなくても仕事に着手できるようになる心整序技術の発展
(例 「眠気防止技術」、「一人でできる感情の演技」、…)

エ 社会全体で仕事の仕方が改善され(残業、休暇、育児、…)、仕事をする人の作業に対する意欲が向上する。

オ 社会全体で創造的側面のある仕事が増え、仕事監理面で強制性が減じ、自主性が増大する。


以上の検討から、将来社会における幸福否定現象の緩和には次のような条件が大切であるにちがいないと想像することができました。

ア 当該テーマに関する知識・情報の増大

イ 当該テーマに関する知識・情報の共有

ウ 当該テーマに関する各種技術の発展普及

エ 当該テーマに関する心に関する技術の発展普及

オ 社会制度・しくみの改善発展

カ 社会の創造面における発展

同時に、これらの条件を指標として、過去社会(原始社会、古代社会など)における幸福否定現象(の緩和)について検討してみたくなりました。

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