2016年7月21日木曜日

自分がほんとうにしたいこと(=幸福)に絶対性があるか?

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)では幸福否定という万人が備えた心の現象を扱っていて、その現象は大変興味深いものです。

自分の生活を振り返っても、また周りの人を見まわしても、幸福否定という現象で人の不可解な行動を的確に理解できます。

私は掛け値無しで、この理論はノーベル賞級だと直観しています。

さて、そこで使われる幸福という概念に感想を持っています。

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)では幸福という状態を次のように説明しています。

……………………………………………………………………
では、「幸せになりたい」という時の「幸福」とは、いったいどのような状態なのでしょうか。

これを考える時、喜び(幸福感)と楽しさ(快楽)の区別は非常に重要です。

このこと自体に注目する専門家はほとんどいませんが、実は、誰でも意識下ではこの区別をいつも明確に行なっています。

手短に説明すれば、自分の成長につながることに伴う感情が喜びであり、その場だけの刹那的な快楽に伴う感情が楽しさです(ちなみに、英語では、喜びはhappinessに、楽しみはpleasureに当たります)。

わかりやすい例をあげれば、自分が本当にしたいと思っていることをする時に出る感情が喜びであり、それから逃げて時間つぶしをする時の感情が楽しさです。

喜びにつながる行動には抵抗がありますが、楽しいことには、原則として抵抗はありません。

つまり、ほとんどは、喜びを避けて楽しみに逃げてしまうということです。

それは、無意識的にではありますが、この区別が明確にできていなければ不可能なことです。

(中略)

ベルクソンは、喜び(幸福感)と楽しさ(快感)は、根本から異なる感情だと言っています。

自分の目標を達成した時や何らかの創造をした時、人格の成長が実感された時などの、生命が向かうべき方向を知らせてくれる感情が喜びであるのに対して、一時の快感が楽しさだということです

(中略)

したがって、自分の幸福を避けたり否定したりするということは、自分の能力の発揮や人格の成長を嫌うということであり、生命が向かう方向に逆行しているということになるでしょう。

本当の幸福へ向かう道を、心の中の悪魔が明確に判断し、快楽や楽しみという形で阻止するのです。

……………………………………………………………………

上記の文章にはもちろん賛成なのですが、現実生活ではこのように喜び(幸福感)と楽しさ(快楽)を2元的、絶対的に分割できないことはいつも感じることですから、より深い思考が必要です。

卑近な例でいえば、受験生が受験勉強をして大学を目指すという活動に喜びをを見出すことはあると思います。

その活動には多くの抵抗がありますから、快楽を避けて大学合格した人が喜び(幸福感)を味わったと表現できます。

ところが、会社経営(組織運営)を使命とする人が、会社や組織運営に必要な資格試験の受験勉強に熱中したらどうでしょうか。

その人の本分である会社経営(組織運営)を脇において、「多くの抵抗に抗して、快楽を避けて」受験勉強しても、それは褒められるものでは到底ありません。

会社経営(組織運営)を使命とする人の喜び(幸福感)は会社経営(組織運営)を発展させることですから、ほとんどの場合本人の受験勉強は本人の意識でも、他人から見ればなおさら道楽(快楽)になります。

このように同じ「受験勉強」でも人によって、状況によって喜び(幸福感)になったり楽しさ(快楽)になったりすると考えられます。

喜び(幸福感)と楽しさ(快楽)の区別は厳密に考えると、あくまでも相対的なものであると考えます。

現実の世の中では「この活動が喜び(幸福感)をもたらすものであるか、単なる楽しさ(快楽)であるか」判断に迷うことも多々あります。

自分の意識がこのように迷った時、「本当の幸福へ向かう道を、心の中の悪魔が明確に判断し、快楽や楽しみという形で阻止するのです。」ということになるのでしょうか?


現時点では喜び(幸福感)と楽しさ(快楽)の違いは相対的なものであり、現実世界では状況の変化の応じて絶えず変化する、入れ替わるものであると考えます。

また自分が「1番したいこと」も相対的であり、変化し、入れ替わることがあるように感じています。

花見川風景





0 件のコメント:

コメントを投稿