2016年6月30日木曜日

始業時間や待ち合わせの約束に必ず遅れる遅刻の常習

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版、2016.06)の第1章「身近な出来事に潜む"幸福否定"」の3番目は始業時間や待ち合わせの約束に必ず遅れる遅刻の常習です。

遅刻の常習者は目的地が遠くても近くても、例えば10分というふうにいつも決まった時間だけ遅れる人が多く、何かの調整が働いていることがかんじられるそうです。

また、遅刻の常習者のなかには朝早く起きる人もいて、支度に手間取ったり、支度が終わってもぐずぐずしていてなかなか出られない人がいるそうです。

このような実例から、笠原敏雄さんは、「むしろまにあわないように、つまり決まった時間だけ遅刻するように調整しているらしいことが、ますますはっきりしてきます。」と書いています。

さらに、一般の心理療法やカウンセリングで、自分の中に「意図的に遅れるような無意識の調整が働いている」ということの重大さに気がついても、遅刻はほとんどなくならないと書いています。


さて、翻って自分の遅刻行動についてみると、交通時間の予測を誤って遅刻するなどの例はありましたが、遅刻の常習はこれまでの人生でなかったと思います。

また、人生の後半は約束の時間に必ず余裕をもって到着するような習慣が付き、遅刻はほぼ皆無になりました。

一般のビジネスマンで遅刻を全くしない人は多いと思います。

以前同じ職場で遅刻の常習者がいて、結局首になりました。

遅刻をする人は組織の要所からは必ず排除されると思います。



ここまで締め切りギリギリ症、片付け先延ばし、遅刻の常習という3つの例を学習してきました。

3つとも身近ではありますが、その様相は、個人と社会の関係でみるとだいぶ異なっていることがわかります。

1 締め切りギリギリ症

締め切りギリギリ症の人は、社会との契約は結局は守っている状況です。

つまり結果として仕事はするのです。

ただしやっつけ仕事になって仕事の質が低下したり、一緒に仕事をする人に迷惑をかける場合もあるといことです。

そうでない場合もあります。

なお、締め切りギリギリで結局仕事ができなくて納期に間に合わないということになると社会契約を守らないということになります。

ですから、そういう状況は締め切りギリギリ症の範疇には入らないと思います。

遅刻の常習と同じような範疇に入ると思います。

もともとその仕事の能力がないとみられるので、契約違反みたいなものになります。

2 片付けの先延ばし

社会との関係で考えると、社会には影響をほとんど与えない状況です。

友人が来訪するときは片づけるのです。

子供に「いつもお客さんがくるといいね」と片付けが出来ない親が嫌味をいわれるような状況です。

自分の生活環境が劣悪化する程度の状況です。

3 遅刻の常習

社会との契約を明瞭な形で守らないことになります。常習者は組織から排除される方向をたどります。


社会生活における事の重大さの順番でこの3つの例を並べ替えると次のようになります。

1 一線を越えた遅刻の常習

自分自身が心の中で、自分を邪魔するという現象が幸福の否定ということなりますが、サラリーマンを念頭においた社会生活を営む上で、遅刻の常習は社会契約を破ってしまっているのですから、自己破滅の様相があると思います。

一線を越えてしまった状況です。

2 ギリギリ踏ん張っている締め切りギリギリ症

締め切りギリギリ症はそれを前提にして生活している人が多く、その症状があるからと言って能力が発揮できていないとは必ずしも言い切れないと思います。

有益な成果をあげる人でも締め切りギリギリ症の人が多くいます。

一線を越えないで、まさにギリギリで踏ん張ってる状況です。

3 余裕のある片付け先延ばし

片付け先延ばしは、いざというときは片づけることができるのですから、社会契約という点から見ると、問題はないと思います。

一線のはるか手前にいる余裕のある状況です。



社会生活を営む上で、社会との契約とか規範との強さの異なる3つの状況において、いづれでも極普通に幸福否定現象が見られることが判りました。

笠原敏雄さんのいうように、仮に自らが自らの幸福を否定していると意識しても、それだけでは問題が解決しませんから、まさに根深いものなのだと思います。

さらに学習を続けます。



花見川の日の出(弁天橋)




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