2016年10月30日日曜日

自分事としての幸福否定と興味対象物としての幸福否定

思考を継続して深めていくプロセスの中で、「あの頃自分はどのように考えていたのか?」と自分の思考経過を思い出せなくなることが時々あります。

そこで、塾考した結果ではありませんが、思考の分岐点にきている現在の状況をメモしておきます。

1 笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)に興味を持った理由

1 自分のグズを退治するのに有効活用できそうな理論だと直感したから(最初の興味)

2 「反応」を指標にして「自分が気が付かない『本当の興味』」を見つけられるから(学習途中から生まれた第2興味)

3 心の機構「幸福否定」が顕著に発現して個人や社会に影響を及ぼすのは現代社会特有であり、原始社会や古代社会では心の機構「幸福否定」の機能の様子が大きく異なるに違いないと気が付いたから(学習現時点で生まれた第3興味)

1グズ退治と2指標としての反応利用は自分事としての興味です。

1グズ退治では感情の演技という手法の実践が課題となります。

2指標としての反応利用の手法は自分で開発することが課題となります。

3幸福否定と人類社会発展史との関係は自分事としての興味ではなく、対象物としての興味です。

対象物である3幸福否定と人類社会発展史との関係の興味は次の2つに大別されます。

ア 原始・古代社会における心の機構「幸福否定」の機能の様子

イ 現代社会で発現している幸福否定現象が備えている条件

2 客観的対象物(興味対象)としての幸福否定の検討方法

例として 「締め切り間際にならないと手が付けられない」現象が発生するために必要な社会条件は何か? を考えてみます。

少し考えただけでも、次のような社会条件が必須だと思います。

・社会が本人(個人)に課題を与えている状況が存在する。(宿題、試験、仕事、…)

・本人がその課題を自分事として考えている。(個人で達成すべきと社会も本人も考える)

・社会も本人も、本人に自主性(独立性)が存在していることを前提としている。

・社会も本人も、その課題を達成できる能力、気力、道具、時間等が存在していることを前提としている。

・  (ほかにもいろいろな条件があると考えます)

このような思考をすると、社会が個人に課題を与えることは現代では一般的ですが、原始・古代社会では稀(※)だと考えると、「締め切り間際にならないと手が付けられない」現象の発生は原始・古代社会では稀であったことを導くことができます。

※ 未開社会における成人儀礼など

同時に原始・古代社会では社会が個人に課題を与えることは稀ととらえて本当によいものか、検証することが必要になります。

旧石器時代人が槍の穂先となる黒曜石を長野県や福島県や山形県まで出向いて集め、それを加工し、下総台地の縁から獲物を崖下に追い落として仕留めていた時代、集団(社会)が個人にどれだけ課題を課していたのか、その専門知識が世の中にあるならば得たいと思います。

もしかしたら、現代の未開社会研究でそのような知識が存在するかもしれません。

この例の検討から、現代社会における幸福否定現象について社会の側面から検討すると、その現代性が浮き彫りになると思います。

その情報を原始・古代社会における検討と問題意識の深化に有効活用できると考えます。



0 件のコメント:

コメントを投稿