2016年10月28日金曜日

幸福否定学習から派生する興味

このブログでは自分のグズ緩和に資することを目的に、笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)の学習をしています。

その本来学習目的からは大脱線してしまいますが、現時点における自分のメイン興味である考古歴史と幸福否定学習が結びつきつつあるので、メモしておきます。

これまで、幸福否定という心の機構が存在していて、多くの現代人がそのマイナス影響を被っていることを学習しました。

誰でもそれを実感できる事象として、締め切り間際にならないと物事に手をつけられないことや片付けができないこと、あるいは自分がしたいことを自分の意思だけで行うことの困難性などがあることを学習しました。

この幸福否定が強くなると自分の成長や進歩を否定し、自他の愛情を受け入れず、反省を拒否し、最後には自滅の方向に進み、文字通り幸福を否定する結果になることを学習してきました。


さて、このような心の機構が人類の歴史で同じように発現して、同じように社会に影響を与えてきたとは思われないと考えます。

幸福否定という心の機構そのものは、全く同じものを原始人、古代人も現代人も備えていると考えます。

しかし、その心の機構が発現して社会に与える影響は時代によって大いに違っているにちがいないと考えます。

現代人は産業資本主義社会に住んでいて、社会から締め切りのある仕事を誰でも強制されます。

現代人は驚くほどの強烈なスピードで物が集まってしまう環境に住んでいます。社会が人に片付けを強制します。

現代人は余暇が増え続け、趣味や自分がしたいことを持つように社会から強制されています。



幸福否定の身近な事例は、よくよく考えると現代社会だから発現している現象であると感じられてしかたがありません。

秦の始皇帝の時代には官僚組織ができていたということですから、その時代のごくごく一部の支配層は計画的な発想で行政をしています。

そのような人々は「締め切り」とか「片付け」とか「自分のしたいこと」などが課題となり、場合によっては幸福否定現象が発現していたかもしれません。

しかし、それは社会全体からみればほんのわずかの人々に起こった事象です。

日本でいえば、奈良時代には全国に計画的道路網が完備され、官僚組織も整備されていたのですから、社会上層のごくごく一部の人は「締め切りまでに仕事をする」とか「掘立柱建物の中の什器を整理整頓する」とか「趣味で文芸や美術に興味を持つ」とかが課題になったとは思います。

そのような人々は現代人と同じ幸福否定現象が発現していたかもしれないとは思います。

しかし、それは日本社会全体からみればほんの一握りの人に発現した事象だと思います。


さらに時代を遡れば、旧石器時代とか縄文時代ではそもそも「締め切り」とか「片付け」とか「自分のしたいこと」という概念が社会に存在しなかったと思います。

現代人に発現する幸福否定現象が起こる余地が存在しなかったと想像します。


要約すると、笠原敏雄先生が発見した心の幸福否定現象の万人発現は現代産業資本主義社会特有といってもよいほどの現代性をそなえた事象であると想像します。

この想像から、旧石器時代人や縄文時代人の心がどのようなものであったのか、大いに興味を持ちます。

旧石器時代や縄文時代の狩の様子などについて発掘調査報告書の詳細分析を趣味活動でおこなっていますが、この分析の中にもし「心の様子」が少しでも入れば、大いに面白いことになります。

旧石器時代人も縄文時代人も現代人と同じ心の機構「幸福否定」は備えている。

しかし、「幸福否定」機構の機能の様子は現代人とまったく異なると空想します。

風景

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