専門家を含めて圧倒的多数の人類が気が付くことができない(気が付くことに強い抵抗が生じる)幸福否定の原理を、笠原敏雄先生が発見したことは人類的快挙だと、文字通り考えています。
それはさておき、この記事では、幸福否定の原理が存在しない状況を想定するという思考実験を行い、幸福否定の人類史的意義について考えてみました。
1 幸福否定という心の原理が存在しない場合の状況推定
1-1 幸福否定の説明
笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)の「まえがき」では幸福否定を次のように説明しています。
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① 自らの「無意識の一部」が、自分が幸福の状態にあることを極度に嫌い、その幸福感を意識にのぼらせないような策を講ずる。
② それと並行して、自分が幸福ではないことを自分の意識に言い聞かせるために、目の前に問題を作りあげる。
③ その結果として生み出されるのが、心身症や精神病という病気であり、行動の異常である。
この一連のしくみをつかさどる「無意識的な意思」のことを、私は“幸福否定”と呼んでいます。
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1-2 幸福否定の原理が存在しない状況の想定
幸福否定という心の原理が存在しない状況を、上記引用文を改変して記述してみます。
なお、幸福という言葉は抽象的で多義的ですから、これを「自分がしたいこと」と言い換えます。
① 自らの「無意識の一部」が、自分がしたいことをしている状態にあることを嫌うことはない。
自分がしたいことをしている達成感や満足感をいつも意識することができる。
② 自分がしたいことができないと自分の意識に言い聞かせることはないので、自分自身が目の前に問題を作りあげることはない。
③ 自分が目の前の問題をつくりあげ、自分の邪魔をすることはないので、それに起因する心身症や精神病という病気や行動の異常は存在しない。
幸福否定の原理が無くなると、具体的には次のような状況となります。
●誰でも、締め切り間際にならなくても、計画的に物事に手をつけることができる。
●誰でも、片づけることができる。
●遅刻魔がいなくなる。
●誰でも、プラス思考ができる。
●誰でも、自分がしたいことが実現できるようになる。
幸福否定の原理が無くなると、次のような現象が発生します。
●誰でも、課題の解決を迅速に行う。
●誰でも、自分の進歩や成長を肯定する。
●誰でも、自他の愛情を受け入れる。
●誰でも、反省を避けようとしない。
このような空想をしてみると、幸福否定が無い社会は一種の理想社会であり、人々の能力は最大限発揮され、社会の進歩発展スピードは超高速になると考えます。
2 幸福否定という心の原理が人類史のいつから問題になったか?社会的に顕在化したか?
幸福否定という心の原理は人類創成の時から備えている属性だということは直観できます。
しかし、その属性がえぐり出されて白日のもとの晒され、とうとう笠原敏雄先生によって発見されることになるということは人類史の中でも極最近の出来事になると思います。
門外漢の素人思考からは、工業化社会が成立して以降が幸福否定が社会問題化し始めた期間であるような気がします。
縄文時代人は「締め切り」とか「片付け」とか「遅刻」とか「プラス思考」とか「自分がしたいこと」とかに関する社会要請は極めて虚弱であったと考えます。
ですからに幸福否定が社会的に顕在化することはなかったと思います。
原始時代は、恐らく心身症や精神病や行動異常は現代と比べて格段に少なかったと想像します。
このように考えると、人類の急速な社会発展が原因となり、近代現代になってはじめて幸福否定という属性の発動が顕著になったと想像します。
3 幸福否定の意義
1から、幸福否定という人類に備わっている心の原理は、人々の能力を無制限に発動して社会発展のスピードを高速にしないためのコントロール装置であると考えます。
そして2から、近代現代になり社会発展のスピードが増したので、幸福否定の原理が発動して、多くの人の能力を抑制する方向で働いていると考えます。
この思考から、幸福否定の意義を次のように考えます。
ア 人類社会の危機に対する高度な防衛装置
常時人類全員が持てる力を100%発揮していると、外部に由来する危機に直面した時、それまで以上の力を発揮できません。社会としての余力がありません。硬直しています。しなやかさがありません。
しかし、幸福否定の原理で人の能力が十分に発揮できない社会では、危機に際して、それまで発揮できなかった力を余力として発揮できるようになる可能性があります。危機に対してし余力を備えておくことができます。しなやかな対応が可能です。
アリ社会では集団の中に働かないアリが一定パーセントいて、アリ数が減るとそれまで働かなかったアリが働きだして、集団の危機を乗り切るそうです。
同じような集団維持原理が幸福否定の原理であると考えます。
戦争になると精神病が少なくなることが、この思考を裏付けると思います。
イ 進化スピード調整装置
もし幸福否定原理がなければ、人類社会は超高速で発展してしまいます。
短時間で人類社会が発展してしまうということは、現在の特定環境に人類が強く適応してしまい、環境変化があった時、後戻りして対応することが不可能になってしまう可能性があるということです。
幸福否定の原理は種の進化スピード調整装置であり、人類のむやみなガラパゴス的進化を予防する装置であると考えます。
こういうことを考え出すのは、抵抗の現れです。
返信削除つまり逃げなわけです。
感情の演技を続けてられますか?
笠原先生もある意味罪な人です。
幸福否定を克服するのは独りでやるのはほぼ不可能です。
ハートセラピスト さん
返信削除コメントありがとうございます。
幸福否定が存在しない状況を空想してみて、その空想から幸福否定の意義を考えたのですが、それに対して、「こういうことを考え出すのは、抵抗の現れです。つまり逃げなわけです。」というコメントをいただくことに違和感を感じます。
幸福否定の意義(人類にとって、生物進化にとって)についてハートセラピストさんはどのようにお考えですか?
幸福否定の意義について考えること自体がそもそも抵抗の表れなのですか?
発言の内容ではなく、発言そのものに「抵抗の現れ、逃げ」というレッテルを貼ってもあまりあまり意味がないと思います。
私も、ハートセラピストさんも、さらに笠原敏雄さんも含めて万人が、心の中に根強い幸福否定の仕組みを内蔵していると理解します。
内蔵している幸福否定の仕組みのマイナス影響をできるだけ緩和する手立てを考えるということが、私も、ハートセラピストさんも、笠原敏雄さん自身も、課題であると考えています。
私はもちろんのこと、ハートセラピストさんも、笠原敏雄さんも抵抗の発生から免れることは無いと理解します。
荒木さんの当面の目的は趣味活動での抵抗の克服でしょう?
返信削除それから外れていっているということです。
もちろん幸福否定の意義について考えること自体が抵抗の表れと言っているわけではありません。
時期の問題です。
ハートセラピスト さん
返信削除コメントありがとうございます。
おっしゃる通り、このブログの目的は趣味活動で感じた抵抗について、その緩和を探る活動をテーマにしています。
笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)に出会えて本当によかったと思います。
実際、この学習と関連して趣味活動における抵抗緩和がみられているかもしれないという感想もあります。(このことは順次記事にします。)
また、感情の演技の真似事も記事にしたいと思います。
同時に「幸福否定」理論を興味対象物としても見ています。
自分の頭の中では「幸福否定」理論をいろいろいじくりまわして、どこまで本当か、納得できるか、発展する方向のイメージはどのようなものかなど考えています。
現状ではそのような2側面から「幸福否定」理論に熱中しています。
それらの感想を記事にしていきますのでよろしくお願いします。