2016年10月31日月曜日

笠原敏雄著「幸福否定の構造」による幸福否定の意義

このブログでは一般解説本である笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)の学習をしていますが、その親本ともいうべき笠原敏雄著「幸福否定の構造」(kindle版)を読んでみました。

幸福否定理論は自分が想像する以上にはるかに壮大なスケールであることに気が付きました。

また「幸せを拒む病」では知りたいと思ったことで書かれていない事柄が多く、自分の学習欲が満たされる面も多くあります。

そこで、笠原敏雄著「幸福否定の構造」(kindle版)を読んで気が付いたことのメモをいくつか記事にすることにします。

この記事では幸福否定の意義についてメモします。

笠原敏雄著「幸福否定の構造」(kindle版)の最終章で人類史、あるいは生物進化史の中での幸福否定の意義について書かれていますので、引用します。

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人間 の 本心 は、 生命体 を 絶えず 進歩 さ せよ う と する 駆動 力 と 密接 に 関係 し て いる はず で ある。

 人間 の 一生 の 中 で 起こる さまざま な 好事 や 悪事 には、 本心 と、 それ を 否定 しよ う と する、 本能的 とも 言う べき強力 な 意志( 幸福 の 否定) の 双方 が、 いつも 深く かかわっ て いる。 

その こと から すれ ば、 内心 に 潜む 意志 は、 何らかの 形 で 本心 と協同 し て、 心 の 進化 を 進める うえ で、 積極的 な 役割 を 演じ て いる ので あろ う。   

人間 の 進歩 に 内心 が 積極的 役割 を 演じ て いる と する 推定 は、 内心 によって 心因 性 の 症状 や 異常 行動 が 発生 する こと からも(間接的 な 形 では ある が) 裏づけ られる。

 表面 的 に 見る 限り、 症状 や 異常 行動 は 悪い もの で ある が、 それ が、 自分 を 高めよ う と する 契機 に なる と すれ ば、 結果的 には 前向き に なる うえ で 役立つ からで ある。

 内心が、 単に 本心 の 否定 に 留まる もの で ある と すれ ば、 内心 にとって、 前向き に なる のに 役立つ こと は 失敗 と なる が、 もし 本心 と 協同 し て 働く という 役割 を 密か に 持っ て いる と すれ ば、 それ は まさに 予定 通り の もの で ある こと に なる。  

 もし 内心 が 積極的 な 役割 を 担っ て いる と すれ ば、 個人 は、 その 誕生 に際して、 その 一生 の 中 で、 本心 の 中 から 引き出し たい と 願う( あるいは、 その つもり で いる) 能力 や 徳性 を 最も 効果的 に 引き出す ため の 手段 として 内心 を 活用 する のでは ない か、 という 推定 が 可能 に なる。

 現実 の 生活 を 見る と、 自分 の 意識 に 受け入れ られ ない ほど 大きな 幸福 に 直面 する たび に、 内心 が その 否定 を して、 矯正 す べき 症状 や 行動 を 作りあげ て いる。 

それ に 直面 し た 意識 が、 そうした問題 点 に 速やか に 懲りれ ば、 目的 が 簡単 に 達成 できる こと に なる が、 実際 には そう では ない。 

意識 の 上 で 懲り ても、 内心 では 容易 に 懲り ない よう に なっ て いる からで ある( 笠原、 一 九九 七年)。 

その せめぎ 合は、 近視眼的 に 見れ ば、 内心 の 勝ち と なる。 

しかしながら、 人間 の 歴史 と 同じく、 きわめて 長い 目 で 見れ ば、 結局 は 本心 が いつも“ 辛勝” を 収め て いる こと が わかる。 

そして、 それ が、 能力 と 徳性 の 漸進 的 開花 につながる ので ある。

(中略)

また、 もし 完璧 な 能力 や 徳性 が 人間 に 内在 し て いる ので あれ ば、 それ を 直接 に 発揮 しよ う と せ ず、 内心 という 複雑 な 仕組み を 作りあげる まで し て、 天文学 的 な 時間 を かけ て、 きわめて わずか ずつ 生物 に、 最終 的 には 人間 に それ を 行なわ行なわ せる のは、 なぜ なので あろ う か。 

その よう な 究極 的 疑問 を 含め、 真 の 意味 で 人間 を 理解 する ため には、 反応 や その 裏 に ある 抵抗 の 本質 を 解明 する こと が、 必要 不可欠 の 課題 と なる。 

そして、 その 糸口は、 われわれ の 身近 に 絶えず 存在 する ので ある。

笠原敏雄著「幸福否定の構造」(kindle版)より引用
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私なりに要約すると次のようになります。



幸福否定は心の進化の中で、人の能力と徳性を漸進的に開花させるために積極的な役割を果たしている。

それは結局は本心がいつも“ 辛勝” を 収め て いる ことからもわかる。

なぜ完璧な能力や徳性の直接発揮をしようとしないのかはわからない。



結局は、進化において役割を果たしている(意味のある)ブレーキであるが、なぜそのようなブレーキを必要とするのかは不明であるということになります。

さて、私は2016.10.10記事「幸福否定が存在しない状況」を考えてみる」で、幸福否定の意義について次のように想像しました。

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3 幸福否定の意義

1から、幸福否定という人類に備わっている心の原理は、人々の能力を無制限に発動して社会発展のスピードを高速にしないためのコントロール装置であると考えます。

そして2から、近代現代になり社会発展のスピードが増したので、幸福否定の原理が発動して、多くの人の能力を抑制する方向で働いていると考えます。

この思考から、幸福否定の意義を次のように考えます。

ア 人類社会の危機に対する高度な防衛装置

常時人類全員が持てる力を100%発揮していると、外部に由来する危機に直面した時、それまで以上の力を発揮できません。社会としての余力がありません。硬直しています。しなやかさがありません。

しかし、幸福否定の原理で人の能力が十分に発揮できない社会では、危機に際して、それまで発揮できなかった力を余力として発揮できるようになる可能性があります。危機に対してし余力を備えておくことができます。しなやかな対応が可能です。

アリ社会では集団の中に働かないアリが一定パーセントいて、アリ数が減るとそれまで働かなかったアリが働きだして、集団の危機を乗り切るそうです。

同じような集団維持原理が幸福否定の原理であると考えます。

戦争になると精神病が少なくなることが、この思考を裏付けると思います。

イ 進化スピード調整装置

もし幸福否定原理がなければ、人類社会は超高速で発展してしまいます。

短時間で人類社会が発展してしまうということは、現在の特定環境に人類が強く適応してしまい、環境変化があった時、後戻りして対応することが不可能になってしまう可能性があるということです。

幸福否定の原理は種の進化スピード調整装置であり、人類のむやみなガラパゴス的進化を予防する装置であると考えます。

2016.10.10記事「幸福否定が存在しない状況」を考えてみる」から引用
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この想像の適格性の程度は別にして、「なぜ完璧な能力や徳性の直接発揮をしようとしないのか」という疑問に対応する解答例にはなると考えます。

風景

2016年10月30日日曜日

自分事としての幸福否定と興味対象物としての幸福否定

思考を継続して深めていくプロセスの中で、「あの頃自分はどのように考えていたのか?」と自分の思考経過を思い出せなくなることが時々あります。

そこで、塾考した結果ではありませんが、思考の分岐点にきている現在の状況をメモしておきます。

1 笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)に興味を持った理由

1 自分のグズを退治するのに有効活用できそうな理論だと直感したから(最初の興味)

2 「反応」を指標にして「自分が気が付かない『本当の興味』」を見つけられるから(学習途中から生まれた第2興味)

3 心の機構「幸福否定」が顕著に発現して個人や社会に影響を及ぼすのは現代社会特有であり、原始社会や古代社会では心の機構「幸福否定」の機能の様子が大きく異なるに違いないと気が付いたから(学習現時点で生まれた第3興味)

1グズ退治と2指標としての反応利用は自分事としての興味です。

1グズ退治では感情の演技という手法の実践が課題となります。

2指標としての反応利用の手法は自分で開発することが課題となります。

3幸福否定と人類社会発展史との関係は自分事としての興味ではなく、対象物としての興味です。

対象物である3幸福否定と人類社会発展史との関係の興味は次の2つに大別されます。

ア 原始・古代社会における心の機構「幸福否定」の機能の様子

イ 現代社会で発現している幸福否定現象が備えている条件

2 客観的対象物(興味対象)としての幸福否定の検討方法

例として 「締め切り間際にならないと手が付けられない」現象が発生するために必要な社会条件は何か? を考えてみます。

少し考えただけでも、次のような社会条件が必須だと思います。

・社会が本人(個人)に課題を与えている状況が存在する。(宿題、試験、仕事、…)

・本人がその課題を自分事として考えている。(個人で達成すべきと社会も本人も考える)

・社会も本人も、本人に自主性(独立性)が存在していることを前提としている。

・社会も本人も、その課題を達成できる能力、気力、道具、時間等が存在していることを前提としている。

・  (ほかにもいろいろな条件があると考えます)

このような思考をすると、社会が個人に課題を与えることは現代では一般的ですが、原始・古代社会では稀(※)だと考えると、「締め切り間際にならないと手が付けられない」現象の発生は原始・古代社会では稀であったことを導くことができます。

※ 未開社会における成人儀礼など

同時に原始・古代社会では社会が個人に課題を与えることは稀ととらえて本当によいものか、検証することが必要になります。

旧石器時代人が槍の穂先となる黒曜石を長野県や福島県や山形県まで出向いて集め、それを加工し、下総台地の縁から獲物を崖下に追い落として仕留めていた時代、集団(社会)が個人にどれだけ課題を課していたのか、その専門知識が世の中にあるならば得たいと思います。

もしかしたら、現代の未開社会研究でそのような知識が存在するかもしれません。

この例の検討から、現代社会における幸福否定現象について社会の側面から検討すると、その現代性が浮き彫りになると思います。

その情報を原始・古代社会における検討と問題意識の深化に有効活用できると考えます。



2016年10月28日金曜日

幸福否定学習から派生する興味

このブログでは自分のグズ緩和に資することを目的に、笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)の学習をしています。

その本来学習目的からは大脱線してしまいますが、現時点における自分のメイン興味である考古歴史と幸福否定学習が結びつきつつあるので、メモしておきます。

これまで、幸福否定という心の機構が存在していて、多くの現代人がそのマイナス影響を被っていることを学習しました。

誰でもそれを実感できる事象として、締め切り間際にならないと物事に手をつけられないことや片付けができないこと、あるいは自分がしたいことを自分の意思だけで行うことの困難性などがあることを学習しました。

この幸福否定が強くなると自分の成長や進歩を否定し、自他の愛情を受け入れず、反省を拒否し、最後には自滅の方向に進み、文字通り幸福を否定する結果になることを学習してきました。


さて、このような心の機構が人類の歴史で同じように発現して、同じように社会に影響を与えてきたとは思われないと考えます。

幸福否定という心の機構そのものは、全く同じものを原始人、古代人も現代人も備えていると考えます。

しかし、その心の機構が発現して社会に与える影響は時代によって大いに違っているにちがいないと考えます。

現代人は産業資本主義社会に住んでいて、社会から締め切りのある仕事を誰でも強制されます。

現代人は驚くほどの強烈なスピードで物が集まってしまう環境に住んでいます。社会が人に片付けを強制します。

現代人は余暇が増え続け、趣味や自分がしたいことを持つように社会から強制されています。



幸福否定の身近な事例は、よくよく考えると現代社会だから発現している現象であると感じられてしかたがありません。

秦の始皇帝の時代には官僚組織ができていたということですから、その時代のごくごく一部の支配層は計画的な発想で行政をしています。

そのような人々は「締め切り」とか「片付け」とか「自分のしたいこと」などが課題となり、場合によっては幸福否定現象が発現していたかもしれません。

しかし、それは社会全体からみればほんのわずかの人々に起こった事象です。

日本でいえば、奈良時代には全国に計画的道路網が完備され、官僚組織も整備されていたのですから、社会上層のごくごく一部の人は「締め切りまでに仕事をする」とか「掘立柱建物の中の什器を整理整頓する」とか「趣味で文芸や美術に興味を持つ」とかが課題になったとは思います。

そのような人々は現代人と同じ幸福否定現象が発現していたかもしれないとは思います。

しかし、それは日本社会全体からみればほんの一握りの人に発現した事象だと思います。


さらに時代を遡れば、旧石器時代とか縄文時代ではそもそも「締め切り」とか「片付け」とか「自分のしたいこと」という概念が社会に存在しなかったと思います。

現代人に発現する幸福否定現象が起こる余地が存在しなかったと想像します。


要約すると、笠原敏雄先生が発見した心の幸福否定現象の万人発現は現代産業資本主義社会特有といってもよいほどの現代性をそなえた事象であると想像します。

この想像から、旧石器時代人や縄文時代人の心がどのようなものであったのか、大いに興味を持ちます。

旧石器時代や縄文時代の狩の様子などについて発掘調査報告書の詳細分析を趣味活動でおこなっていますが、この分析の中にもし「心の様子」が少しでも入れば、大いに面白いことになります。

旧石器時代人も縄文時代人も現代人と同じ心の機構「幸福否定」は備えている。

しかし、「幸福否定」機構の機能の様子は現代人とまったく異なると空想します。

風景

2016年10月23日日曜日

Kindle版「幸福否定の構造」の入手

Kindle版笠原敏雄著「幸福否定の構造」を入手しました。

現在進めている笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)の学習参考にしたいと考えています。

Kindle版笠原敏雄著「幸福否定の構造」の表紙

Kindle版をモニター4画面に広げて文字を大きくすると、記述の全体像を横目で見ながら読むことができますので、自分の好むパソコン読書ができます。

Kindle版笠原敏雄著「幸福否定の構造」の4画面表示

Kindle版笠原敏雄著「幸福否定の構造」の4画面表示

pdfで電子化した図書はページの姿が残ってしまい、その扱いで若干の難がありますが、Kindle版はページの姿が残っていないので文章そのものの全景を即座に見渡すことができ、より効率的な読書ができます。



2016年10月22日土曜日

損している「幸福否定」

このブログでは笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)の学習の様子をメモしています。

幸福否定の原理発見は素晴らしいことだと思います。

学習すればするほど興味が深まります。

1 幸福否定が受け入れられない理由とその意味

さて、著者がたびたび書中で書いているとおり、この学説は世の中にほとんど受け入れられていないようです。

心理療法専門世界、心理学専門世界のことは全くの門外漢なのでなんとも言えませんが、「幸福否定」学説は専門世界で受け入れられていないようです。

その最大の理由は著者がやはり何度も繰り返し説明するように、専門家を含めて「反応」が発生(存在)するからだと思います。

そして専門家を含めて人は自分自身に発生する「反応」を気軽意識的に客観化できないのですから、なおさら「幸福否定」の理解が進みません。

しかし、そもそもの話として「幸せを拒む病」のなかに「反応」を利用した「本当にしたいこと」探求方法が出ているくらいです。

ですから、「幸福否定」学説に「反応」を示す社会の様子は、社会が「幸福否定」を「本当のこと(本当はそれが正しいこと)」と捉えていると理解することができます。

現状で「幸福否定」学説が社会に受け入れられない状況は「幸福否定」が「本当のこと」であるからに違いないと思います。

「幸福否定」が「本当のこと」なのですから、いつの日にか「幸福否定」学説サイドの態勢が整えば、「幸福否定」学説が一気に社会に受け入れられると想像します。

2 「幸福否定」が損している点

上記1は「幸福否定」学説と社会に関わる本質的問題です。

それとは別に、素人ながら「幸福否定」が損していると考える事柄がありますので、メモしておきます。

「幸福否定」という名称、表現がこのノーベル賞級学説の理解普及を妨げていると考えます。

私は「幸福否定」という表現より「したいこと否定」という表現の方が心の現象をより正確に表現しているように思えてなりません。

心の病気に侵された人がその病気に打ち勝ち、健康を取り戻すことは確かに幸福になることです。

しかし、幸福という言葉には価値観が含まれます。

過去から現在まで哲学などの諸分野で論じられた幸福論は膨大なものがあります。

新興宗教なども幸福という言葉を使います。

ですから「幸福否定」とい言葉を聞くと、その背後にどのような価値観があるのか気になります。

心の仕組みのなかに自分のしたいことを否定する機構があると説明されれば単純に納得できる場面でも、「幸福否定」ということばに向かい合うと身構えてしまいます。

「幸福否定」という名称、表現がそれの理解を妨げていて、損をしていると考えます。

風景



2016年10月10日月曜日

幸福否定が存在しない状況を考えてみる

最近ノーベル賞の発表がありましたが、門外漢市民の感想ですが、心理療法家笠原敏雄先生が発見した「幸福否定の原理」はノーベル賞受賞に十分値するものと思いました。

専門家を含めて圧倒的多数の人類が気が付くことができない(気が付くことに強い抵抗が生じる)幸福否定の原理を、笠原敏雄先生が発見したことは人類的快挙だと、文字通り考えています。


それはさておき、この記事では、幸福否定の原理が存在しない状況を想定するという思考実験を行い、幸福否定の人類史的意義について考えてみました。

1 幸福否定という心の原理が存在しない場合の状況推定

1-1 幸福否定の説明

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)の「まえがき」では幸福否定を次のように説明しています。

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① 自らの「無意識の一部」が、自分が幸福の状態にあることを極度に嫌い、その幸福感を意識にのぼらせないような策を講ずる。

② それと並行して、自分が幸福ではないことを自分の意識に言い聞かせるために、目の前に問題を作りあげる。

③ その結果として生み出されるのが、心身症や精神病という病気であり、行動の異常である。

この一連のしくみをつかさどる「無意識的な意思」のことを、私は“幸福否定”と呼んでいます。
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1-2 幸福否定の原理が存在しない状況の想定

幸福否定という心の原理が存在しない状況を、上記引用文を改変して記述してみます。

なお、幸福という言葉は抽象的で多義的ですから、これを「自分がしたいこと」と言い換えます。

① 自らの「無意識の一部」が、自分がしたいことをしている状態にあることを嫌うことはない。

自分がしたいことをしている達成感や満足感をいつも意識することができる。

② 自分がしたいことができないと自分の意識に言い聞かせることはないので、自分自身が目の前に問題を作りあげることはない。

③ 自分が目の前の問題をつくりあげ、自分の邪魔をすることはないので、それに起因する心身症や精神病という病気や行動の異常は存在しない。


幸福否定の原理が無くなると、具体的には次のような状況となります。

●誰でも、締め切り間際にならなくても、計画的に物事に手をつけることができる。

●誰でも、片づけることができる。

●遅刻魔がいなくなる。

●誰でも、プラス思考ができる。

●誰でも、自分がしたいことが実現できるようになる。

幸福否定の原理が無くなると、次のような現象が発生します。

●誰でも、課題の解決を迅速に行う。

●誰でも、自分の進歩や成長を肯定する。

●誰でも、自他の愛情を受け入れる。

●誰でも、反省を避けようとしない。

このような空想をしてみると、幸福否定が無い社会は一種の理想社会であり、人々の能力は最大限発揮され、社会の進歩発展スピードは超高速になると考えます。

2 幸福否定という心の原理が人類史のいつから問題になったか?社会的に顕在化したか?

幸福否定という心の原理は人類創成の時から備えている属性だということは直観できます。

しかし、その属性がえぐり出されて白日のもとの晒され、とうとう笠原敏雄先生によって発見されることになるということは人類史の中でも極最近の出来事になると思います。

門外漢の素人思考からは、工業化社会が成立して以降が幸福否定が社会問題化し始めた期間であるような気がします。

縄文時代人は「締め切り」とか「片付け」とか「遅刻」とか「プラス思考」とか「自分がしたいこと」とかに関する社会要請は極めて虚弱であったと考えます。

ですからに幸福否定が社会的に顕在化することはなかったと思います。

原始時代は、恐らく心身症や精神病や行動異常は現代と比べて格段に少なかったと想像します。

このように考えると、人類の急速な社会発展が原因となり、近代現代になってはじめて幸福否定という属性の発動が顕著になったと想像します。

3 幸福否定の意義

1から、幸福否定という人類に備わっている心の原理は、人々の能力を無制限に発動して社会発展のスピードを高速にしないためのコントロール装置であると考えます。

そして2から、近代現代になり社会発展のスピードが増したので、幸福否定の原理が発動して、多くの人の能力を抑制する方向で働いていると考えます。

この思考から、幸福否定の意義を次のように考えます。

ア 人類社会の危機に対する高度な防衛装置

常時人類全員が持てる力を100%発揮していると、外部に由来する危機に直面した時、それまで以上の力を発揮できません。社会としての余力がありません。硬直しています。しなやかさがありません。

しかし、幸福否定の原理で人の能力が十分に発揮できない社会では、危機に際して、それまで発揮できなかった力を余力として発揮できるようになる可能性があります。危機に対してし余力を備えておくことができます。しなやかな対応が可能です。

アリ社会では集団の中に働かないアリが一定パーセントいて、アリ数が減るとそれまで働かなかったアリが働きだして、集団の危機を乗り切るそうです。

同じような集団維持原理が幸福否定の原理であると考えます。

戦争になると精神病が少なくなることが、この思考を裏付けると思います。

イ 進化スピード調整装置

もし幸福否定原理がなければ、人類社会は超高速で発展してしまいます。

短時間で人類社会が発展してしまうということは、現在の特定環境に人類が強く適応してしまい、環境変化があった時、後戻りして対応することが不可能になってしまう可能性があるということです。

幸福否定の原理は種の進化スピード調整装置であり、人類のむやみなガラパゴス的進化を予防する装置であると考えます。


2016年10月3日月曜日

眠気、嫌気、興味消沈、お茶お菓子を重要指標として活用中

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)の学習を始めて、細々としたものですが興味は途切れないで深まっています。

この学習の中で、生活上大きな成果を得たと実感していることがあります。

それは、自分に発生する次のようなマイナス現象を重要指標として捉えるようになったことです。

………☆………

これまでマイナス現象と考えていたこと(実は重要指標)

●眠気

●嫌気

●興味消沈、意気消沈

●些事に逃げる(読みたくもない新聞を読む、飲みたくもないのにお茶にする、食べたくもない菓子を食べることによる生活場面の中断)

………☆………

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)の学習を始める前は、これらのマイナス現象が発生すれば、それそのものは自然の摂理であると考えていました。

自然の摂理として発生したマイナス現象は仕方がないので受け入れざるをえないと考えてきました。

受け入れた後、その現象に対して、対症療法的対応に移りました。

強引に頑張ってその生活場面を継続したり、あるいは一端退いて(休息等)再度その生活場面にチャレンジするなどです。

ところが、幸福否定の学習をすることによって、自分に発生するマイナス現象は自然の摂理としてすなおに受け入れるべきものではなく、自分にとって重要場面に遭遇したことの指標として捉えるべきものであることに気が付きました。

「眠気、嫌気、興味消沈・意気消沈、些事に逃げる」はすなおに受け入れるべきものではないことに気が付いたのです。

「眠気、嫌気、興味消沈・意気消沈、些事に逃げる」は人工的、意図的につくられたものであることに気が付いたのです。(それも、自分自身がつくっていることに気が付いたのです。)

自分にとって重要でない場面ではこれらのマイナス現象は発生しないことから、マイナス現象が人工的・意図的なものであることを逆から理解できます。

したがって、マイナス現象は困ったことではなく、自分が成長できる場面に到達できたことを知らせる指標であり、むしろプラスのできごとであることに気がつきました。

「眠気、嫌気、興味消沈・意気消沈、些事に逃げる」現象が発生すれば、その瞬間に、それを発生させた原因であるところの自分にとって大切なことが何であるかを考えることになりました。

実務生活上の重要ポイントを知ることができるようになったということです。

学習成果の一つが生活実務面に現れた(定着した)ことになります。

もし、若かりし頃、この知識があったら、人生は大幅に変わっていたかもしれない…。


なお、成長すべき重要場面で発生する眠気等と、睡眠不足など肉体的精神的疲労による眠気等の区別は、直観的にかなり明瞭にできます。

秋の空


2016年10月2日日曜日

キッズアニメ インサイドヘッド

飛行機の中で偶然キッズアニメ「インサイドヘッド」(原題 Inside Out)を見ました。ディズニー作品です。

小学校低学年の孫がこのアニメを親と一緒に見ているのですが、その時「一応理解しているみたい」と親が私に教えてくれた心理アニメです。

飛行機画面のインサイドヘッド表紙

小さな女の子ライリーが引っ越しを契機に生まれる葛藤体験を、心の中の5つの感情「ヨロコビ」「カナシミ」「イカリ」「ムカムカ」「ビビリ」の活動を通じて描いたものです。

ストーリーの紹介はここではしませんが、心の成長を「特別な思いで」(感情の島)の崩壊と新たな感情の島の復活で象徴しています。

最初の5つの感情の島

復活したたくさんの感情の島

また同じことを5つの感情がライリーを動かす操作盤の大きさ(機能の多さ)で表現していました。

生まれた時の操作盤(スイッチ1つ)

ストーリーが始まるころの操作盤(多くのスイッチ)

ストーリーが終わった時の操作盤(親をやり込める言葉まで発することのできるスイッチまである極めて多機能な操作盤)

ストーリの途中で表れる感情体験記憶倉庫崩壊の様子



感情という大変抽象的な概念をアニメにして、小学校低学年の子どもにも理解できるエンタティンメントにしているので、驚きです。

このアニメを見ながら、笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)の中心概念である幸福否定をアニメ化したら、幸福否定を理解する人が飛躍的に増えるのではないだろうかと想像しました。

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)では、恐らく専門家を念頭に置いて、幸福否定の概念を理解する人はほとんどいない、理解することが困難であると何度も記述しています。

幸福否定の概念を専門家に理解共鳴してもらうのは困難なのでしょうが、素人の自分からみると、インサイドヘッドのようなアニメにして幸福否定概念を一般人に判りやすく示すと、理解者が増えると考えました。

幸福否定の概念を専門家やディレッタントだけではなく、一般人や子どもに教えることも大切だと考えました。