2016年9月21日水曜日

2番目の幸福

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)の学習を始めるなどして、趣味活動において自分が本当にしたいことが何であるか、うすうすわかってきたような気がしています。

その本当にしたいことをすると睡魔などの顕著な反応がうまれることは何度も記事にしました。

この記事では睡魔という肉体に生まれる反応ではない、別のあるいはもっと高級な内心抵抗について考えてみます。


1 趣味活動以外に興味がそらされる現象

最近、気が付くとドラマティックな社会的出来事に関するテレビ視聴時間が増え、趣味活動が沈滞してしまっていることに気が付きました。

恐らく過去20年以上は食事時にその場にあるテレビでニュースを何気なく見る程度で、テレビ視聴時間はほとんどない生活を送ってきています。

ところが都民でもないのに、都議選や豊洲問題のテレビ番組に釘づけになっている自分がいることに気がつきました。

この年になってはじめて社会問題の大切さとか面白さに開眼したということではありません。

また、都議選とか豊洲問題などよりはるかに重大でドラマチックな社会問題が現在他にも、過去にも山積していますから、この問題に特段こだわる理由はありません。

ありていに言えば、テレビ視聴に時間を消費する、逃避的自分がいたのです。

そのように気が付いてみると、趣味活動(ブログ「花見川流域を歩く」や本ブログの活動)が佳境になりつつあるので、それを嫌って、内心が快楽提供作戦を仕掛けたのだと理解できます。

思考努力を行う活動(創造的活動)ではなく、外から提供してくれる社会ドラマ中継に自分の興味が誘われ、まんまとそれに引き込まれてしまったということです。

内心恐るべしです。

過去人生にも同じように、本当に大切な興味(仕事)が佳境に差し掛かった時、それ以外の社会的関心事が突然生まれ、結果として本当にしたいことが阻害されたことが何度かあると、ふりかえることができます。

趣味活動の時間が減少し、分断されれば、当然のことながら思考(発想)が弱まり、継続性が失われ、発展できなくなります。

テレビ視聴に時間を割かない生活に戻ることは、自分の意思で即時に実現できると考えます。

2 趣味活動で材料出尽くし感が生まれ、本当にしたいことの継続が阻害される

本当にしたいことがある程度育つと、あるきっかけでその興味を育て深めることをなぜか止めてしまうことがあります。

そのようなパターンが自分にあります。

多くの場合、深まった興味に関する貴重な情報、多くは専門図書を入手して、これから本格的に検討しようするその瞬間に、材料出尽くし感みたいな感情が生まれてしまいます。

一安心してしまい、いつでもこの検討はできると余裕がうまれ、その興味に対する取り組みが事実上終わってしまいます。

同時になぜか別の項目に興味が移行します。

それではだめだとわかっていながら、そうなるのですから不思議です。

思考努力(創造的活動)を嫌う内心が仕掛けた高級な抵抗の一種であると考えます。

今後、趣味活動で「いざ鎌倉」という重要ポイントで材料出尽くし感が生まれることが必ずあります。

その時、その感情に従順に従うのではなく、その材料出尽くし感をかみしめ、本当にそれが自分が欲する感情であるのか、立ち止まってみたいとおもいます。

3 2番目の幸福の湧出

以上1のテレビ視聴、2の材料出尽くし感による興味の別項目への変化はつぎのような現象として理解することができます。

本当にしたいことの実現が近づくと、内心がそれより低次の興味を提案して、本人をそちらの方に引っ張ってしまう現象。

もし、本当にしたいことを「1番目の幸福」、本当にしたいことより低次のしたいことを「2番目の幸福」と名づけると、この現象の説明が次の記述で行われていると考えることができます。


笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)の小見出し「「いちばんの幸福」は常に隠される」の記述
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本章では、幸福否定と呼ぶ心の動きが、おそらく人間全員に、しかも生まれながらにあるらしいことを説明してきました。

繰り返しになりますが、これは、自らの向上に結びつくはずの喜びを否定しようとする、このうえなく強い意志のことです。

言うまでもないでしょうが、幸福否定といっても、すべての幸福感を否定するわけではありません。

ふつうは自分にとって大きな幸福だけが内心によって否定されるのです。

いわば2番目以下のうれしさは否定されないため、それぞれのうれしさがひとつずつ繰り上がり、本来は2番目に位置づけられるはずのうれしさが、意識の上では、本人にとって最大のうれしさのように感じられるわけです。

ですから、ほとんどの人は、喜怒哀楽を比較的ふつうに示しますし、楽しみを否定することも、まずありません。

そのため、おいしいものを食べたり、旅行に出かけたりする時には素直に喜びますし、生活に潤いを与えてくれる趣味も、いくつかはもっているはずです。

しかし、否定された大きな幸福は、心の奥底に隠されたままで、意識の上に表出することはありません。

よほどの努力をしない限り、真の幸福は、意識の表舞台に立てないまま生涯を終えることになるわけです。
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人は、2番目の幸福が絶えず湧き上がってくるようになっていて、それに染まるような心的力がたえず働いているのかもしれません。

もし2番目の幸福に真剣に取り組むようになると(創造的な思考が発生すると)、3番目の幸福が沸き上がるのかもしれません。

1番目の幸福、2番目の幸福という表現は幸福(したいこと)が階層構造になっていることを示しています。

玉ねぎの皮みたいな階層構造の中に1番目の幸福もあるような気がします。

絶対的で不動の1番目の幸福があるとは考え難いです。

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