2016年9月9日金曜日

人間の根源的幸福

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)では「創作活動と抵抗」という小見出しの中で、創作活動、あるいは未知や未踏の課題に取り組むことの喜びが人間であること実感できる重要な営みであり、それが根源的幸福であると述べられいます。

本心の本質がこの根源的幸福にかかわるものであり、それを全精力で否定しようとするのが内心の本質であるという構図を著者は設定しています。

その構図のうち、内心が本心を否定する、つまり幸福否定する状況を詳しく説明しているのが、この図書「幸せを拒む病」の要旨であると捉えました。

さて、内心が全精力を傾けて否定しようとする創作活動に関して2人の事例が紹介されています。

小林秀雄と中原中也の2人です。

小林秀雄の事例は2016.09.01記事「内心抵抗の見える化」で既に引用しました。

とても理解しりやすい事例です。

小林秀雄が創作の産みの苦しみ(内心の抵抗)で四つん這いになって這いまわったという逸話まで紹介されています。

中原中也の事例はざっと読むと、判ったような感じもします。

しかし、腑に落ちません。

書いてあることを間違っているとかという疑問はないのですが、中原中也の文章からくみ取るべき情報の意義が今ひとつわからないので、メモしておきます。

次に中原中也の事例紹介部分を引用します。

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創造の喜びとそれに対する抵抗から逃げる人たちが多いという事実については、小林秀雄の親友だった、昭和初期の詩人・中原中也が、二O歳の時に書いた日記(一九二七年一一月二五日付)の中で、次のように的確に表現しています。

常に人は自らで耕さなければならない!

すなわ他人を意識することは、夢を即ち生命を壊す。

私は、人と人との習慣的な同意を憎む!

これは、おおよそ次のような意味でしょう。

本来、生物たる人間は、自分の力で何かを創り出すようにできていて、それが生きる喜びになる。

ところが、現実にはそれを避け、人の評価や権威を基準にして、人に受け入れられやすい行動を起こす人たちが多い。

こうして習慣になったそのような行動は、互いに同意しやすいものの、生命の喜びに反している。

それでは、何のために生きているのかわからないので、私は、そのような生きかたを心の底から嫌う。

もちろん、人は、経済的に自立し、社会の中で受け入れられなければ生きていけません。

その一方で、「人はパンのみで生きるのではない」という特性が本来的に備わっているのも、まちがいないところです。

これこそが、動物にあらざる、人間独自の特性なのでしょう。

このように人間は、動物と違って、文化や芸術や科学などを何よりも(場合によっては人命よりも)尊重するという特性をもっています。

それは、探検的な性向という形でも現われます。

これらのことを人間がいかに重視しているかは、世界史をひもとけば、すぐにわかるでしょう。

エベレスト初登頂や新元素の発見など、実利的な側面から見るとどうということはないことが、人類史の中で非常に高く評価されるのです。

そのため、このような未知や未踏の課題にとり組むことの喜びは、自分が人間であることを実感させてくれる、きわめて重要な営みなのでしょう。

だからこそ、内心はこうした人間の根源的幸福を、全精力を傾けて否定しなければならないことになるわけです。

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要約すると次のようになると考えます。

1 人の評価や権威を基準にして行動していては創造活動にならない。生命の喜びに反している。(中原中也)

2 内心は人間の根源的幸福(創造活動など)を全勢力を傾けて否定する。(笠原敏雄)

自分の話ことばにすると次のようになります。

創造活動は人の評価や権威とは関係なく実行するべきものだ。(中原中也)そのような真に創造性を発揮するような状況が心に生まれたら、内心は全精力を傾けて否定することになる。(笠原敏雄)

私の疑問・違和感は中原中也が話していることがらと、内心の抵抗が結びつかない点にあります。

一般論として、社会(組織、集団)に浸かりこんでしまっては真の創造性が発揮できないかもしれないということは、創作を行う人はだれでも多かれ少なかれ感じると思います。

そのような一般論を中原中谷に言わせただけなら、それでよいのですが。

中原中谷が集団に浸かりこんでいたら十分な創作活動が出来ないことに気が付いた事例なのか、それとも内心の説明に関わる事例として紹介されたのか、不明であるという疑問です。

クズの花

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