2016年9月21日水曜日

2番目の幸福

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)の学習を始めるなどして、趣味活動において自分が本当にしたいことが何であるか、うすうすわかってきたような気がしています。

その本当にしたいことをすると睡魔などの顕著な反応がうまれることは何度も記事にしました。

この記事では睡魔という肉体に生まれる反応ではない、別のあるいはもっと高級な内心抵抗について考えてみます。


1 趣味活動以外に興味がそらされる現象

最近、気が付くとドラマティックな社会的出来事に関するテレビ視聴時間が増え、趣味活動が沈滞してしまっていることに気が付きました。

恐らく過去20年以上は食事時にその場にあるテレビでニュースを何気なく見る程度で、テレビ視聴時間はほとんどない生活を送ってきています。

ところが都民でもないのに、都議選や豊洲問題のテレビ番組に釘づけになっている自分がいることに気がつきました。

この年になってはじめて社会問題の大切さとか面白さに開眼したということではありません。

また、都議選とか豊洲問題などよりはるかに重大でドラマチックな社会問題が現在他にも、過去にも山積していますから、この問題に特段こだわる理由はありません。

ありていに言えば、テレビ視聴に時間を消費する、逃避的自分がいたのです。

そのように気が付いてみると、趣味活動(ブログ「花見川流域を歩く」や本ブログの活動)が佳境になりつつあるので、それを嫌って、内心が快楽提供作戦を仕掛けたのだと理解できます。

思考努力を行う活動(創造的活動)ではなく、外から提供してくれる社会ドラマ中継に自分の興味が誘われ、まんまとそれに引き込まれてしまったということです。

内心恐るべしです。

過去人生にも同じように、本当に大切な興味(仕事)が佳境に差し掛かった時、それ以外の社会的関心事が突然生まれ、結果として本当にしたいことが阻害されたことが何度かあると、ふりかえることができます。

趣味活動の時間が減少し、分断されれば、当然のことながら思考(発想)が弱まり、継続性が失われ、発展できなくなります。

テレビ視聴に時間を割かない生活に戻ることは、自分の意思で即時に実現できると考えます。

2 趣味活動で材料出尽くし感が生まれ、本当にしたいことの継続が阻害される

本当にしたいことがある程度育つと、あるきっかけでその興味を育て深めることをなぜか止めてしまうことがあります。

そのようなパターンが自分にあります。

多くの場合、深まった興味に関する貴重な情報、多くは専門図書を入手して、これから本格的に検討しようするその瞬間に、材料出尽くし感みたいな感情が生まれてしまいます。

一安心してしまい、いつでもこの検討はできると余裕がうまれ、その興味に対する取り組みが事実上終わってしまいます。

同時になぜか別の項目に興味が移行します。

それではだめだとわかっていながら、そうなるのですから不思議です。

思考努力(創造的活動)を嫌う内心が仕掛けた高級な抵抗の一種であると考えます。

今後、趣味活動で「いざ鎌倉」という重要ポイントで材料出尽くし感が生まれることが必ずあります。

その時、その感情に従順に従うのではなく、その材料出尽くし感をかみしめ、本当にそれが自分が欲する感情であるのか、立ち止まってみたいとおもいます。

3 2番目の幸福の湧出

以上1のテレビ視聴、2の材料出尽くし感による興味の別項目への変化はつぎのような現象として理解することができます。

本当にしたいことの実現が近づくと、内心がそれより低次の興味を提案して、本人をそちらの方に引っ張ってしまう現象。

もし、本当にしたいことを「1番目の幸福」、本当にしたいことより低次のしたいことを「2番目の幸福」と名づけると、この現象の説明が次の記述で行われていると考えることができます。


笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)の小見出し「「いちばんの幸福」は常に隠される」の記述
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本章では、幸福否定と呼ぶ心の動きが、おそらく人間全員に、しかも生まれながらにあるらしいことを説明してきました。

繰り返しになりますが、これは、自らの向上に結びつくはずの喜びを否定しようとする、このうえなく強い意志のことです。

言うまでもないでしょうが、幸福否定といっても、すべての幸福感を否定するわけではありません。

ふつうは自分にとって大きな幸福だけが内心によって否定されるのです。

いわば2番目以下のうれしさは否定されないため、それぞれのうれしさがひとつずつ繰り上がり、本来は2番目に位置づけられるはずのうれしさが、意識の上では、本人にとって最大のうれしさのように感じられるわけです。

ですから、ほとんどの人は、喜怒哀楽を比較的ふつうに示しますし、楽しみを否定することも、まずありません。

そのため、おいしいものを食べたり、旅行に出かけたりする時には素直に喜びますし、生活に潤いを与えてくれる趣味も、いくつかはもっているはずです。

しかし、否定された大きな幸福は、心の奥底に隠されたままで、意識の上に表出することはありません。

よほどの努力をしない限り、真の幸福は、意識の表舞台に立てないまま生涯を終えることになるわけです。
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人は、2番目の幸福が絶えず湧き上がってくるようになっていて、それに染まるような心的力がたえず働いているのかもしれません。

もし2番目の幸福に真剣に取り組むようになると(創造的な思考が発生すると)、3番目の幸福が沸き上がるのかもしれません。

1番目の幸福、2番目の幸福という表現は幸福(したいこと)が階層構造になっていることを示しています。

玉ねぎの皮みたいな階層構造の中に1番目の幸福もあるような気がします。

絶対的で不動の1番目の幸福があるとは考え難いです。

2016年9月19日月曜日

もしかしたら 超常現象

ずっと以前に所属したある組織で、次のような状況を観察して不思議に感じたことがあります。

もしかしたら超常現象かもしれないと、当時感じました。

(その当時超常現象という言葉を自分は使っていませんでしたが、その人の心理が機械を操作したと直観したのでした。)

新品パソコンを購入すると、それが壊れることがあるのですが、その確率が通常よりかなり高い人がいるのです。

その人は仕事熱心ですが、心の底ではその組織に忌避感を感じているようでした。

私は、根拠はありませんが、その人の心がパソコンという機械に影響を及ぼしていると直観しました。

その人が無意識的にパソコンを壊すような操作をしているということも否定できません。

しかし見かけ上はその人のパソコン操作に起因しないで、その人のパソコンがよく壊れるのです。

私の主観的な感想ですから、本当にそうであるかどうかわかりません。

私のひねくれた思考であると結論付けても反論はできません。

しかし、その当時はそのような直観を強く持ち、今までその直観を否定するような情報はありません。

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)に出てくる超常現象事例と、私が観察した事例と、その確からしさのレベルがよく似ていると感じました。

機械の不調というような超常現象は、日常生活でいたるところでいつも発生しているのかもしれません。

あるいは本人の意識できない無意識的操作により機器を異常に至らしめるという超常現象似の非超常現象が世の中に充満しているのかもしれません。





2016年9月17日土曜日

超常現象 感想つづき

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)に超常現象の記述があり、次の記事で紹介して、その感想を書きました。

2016.09.15記事「超常現象」参照

この記事はその感想つづきです。

「内心の抵抗と超常現象」という小見出しの中で出てくる超常現象の例は次のようなものです。

●テープレコーダー、光磁気ディスク、ICレコーダーの音声に大きな静電音が入る、音量が極端に小さくなる、再生で聞き取れない。

●ICレコーダで録音したはずのものが再生できないで、次にとぶ。

●スカイプ(WEB)で電子音が入る、音量が低下する、音声が途切れる、映像が停止する、接続が切れる。

いずれも、著者とクライアントとのコミュニケーションに伴って起きた現象です。

コミュニケーションの過程で、クライアントの内心が起こした抵抗の一環であると考えられます。

ある状況が整って、その言葉を聞けばクライアントが自身の能力や徳性に目覚めてしまうような時に、内心がそれを妨害して音声機械を操作して聞かせないようにするという現象として理解します。

著者は「このような事例からすると、超常現象は、かなりの規模のものであっても、実は誰でも自在に起こすことができると考えたほうがよさそうです。」とさらりと述べています。


感想

・意識と内心との葛藤が激しくなれば、この現象は一般的に発生すると理解します。

・具体的には、心理療法家が介在するような状況(第3者がサポートして、内心を追い詰めるような状況)で発生する現象であると理解します。

・意識に対する情報遮断の手段として発生する現象であると理解します。

・ある状況が整って、その言葉を聞けば本人自身がその能力や徳性に目覚めてしまうような時に、内心がそれを妨害して音声機械を操作して聞かせないようにするという現象ですから、極めて個人世界の出来事です。

・超常現象として音声機械操作があっても、社会に対する影響はほとんど生じないと考えられます。

・具体的超常現象が社会で白日の下にさらされることは少なく、また興味の対象にはならないと考えます。

・幸福否定の意思が弱まれば、生じない現象であると考えます。

早朝 光る雲






2016年9月15日木曜日

超常現象

このブログでは笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)を学習していますが、超常現象とか念力現象という言葉が自然に出てきています。

超常現象が幸福否定とどのようにかかわるのか、怖いもの見たさみたいな興味を持ちながら、その部分を読んでみました。

「内心の抵抗と超常現象」という小見出しの部分を次に引用します。

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ひとつは、心理療法でのやりとりを、クライアント自身が後で聞き直すために録音していると、肝心な場面で大きな静電音が録音されたり、なぜか音量が極度に小さくなったりして、再生した場合に聞きとれなくなるという現象が頻発することです。

録音媒体は、時代によって異なり、最初は磁気テープでした。

次が光磁気ディスクで、最近はICレコーダに変わっています。

にもかかわらず、同質の雑音が発生するのです。

特にICレコーダでは、さらにふしぎな現象も起こります。

たとえば、録音されていたはずなのに、再生しようとすると別の日の録音にとんでしまうなどの現象です。

最近は、遠方の方がたの心理療法をスカイプ(インターネットを介したビデオ通話)で行なうことも多いのですが、その場合にも、肝心な場面で、多種多様の電子音が入ったり、音量の低下が起こったり、音声が途切れたり、映像が停止したり、場合によっては接続が切れてしまったりするという現象が頻発します。

特定の話題に入ると、その瞬間に起こり始めるので、そのことを事前に説明していなくても、むしろクライアント側がその関係に気づいて、この話の時にはいつも雑音が入るので、このことは重要なのだと思います、などと自分から言い出すこともあるほどです。

ここでは、明らかな念力現象が、しかも多くのクライアントで頻繁に発生しています。

このことは、超常現象としては、きわめて異例なことなのです。

こうした現象は、それほど重要な問題を扱っていることの現われと考えるべきなのでしょう。

その中でも最も興味深いのは、録音しながら行なったセッションで、同じ人物についてやりとりしている時に、眠りと雑音が、交互に繰り返し発生したという事例です。

反応は、互いに排他的に起こるという原則に忠実に従ったわけです。

その事例では、同じ人物について話している時に限って、強い頭痛が起こったり、一瞬のうちに眠ってしまったりを繰り返したのですが、録音テープを再生してみると、強い頭痛が起こっていた時にはテープに大小の静電音が入っており、やりとりが全く聞きとれなくなっていたのに対して、眠っている聞には、静電音は全く入っていなかったのでした(笠原、2000年、第4章)。

このことから、眠りと雑音の発生は、同じ動機から作りあげられたものと考えざるをえなくなります。

このような事例からすると、超常現象は、かなりの規模のものであっても、実は誰でも自在に起こすことができると考えたほうがよさそうです。

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内心(無意識)が意識を妨害し、欺いて、なおかつその妨害や欺きを場合によっては隠れて行うのが幸福否定現象であると理解します。

その幸福否定現象つまり、内心の妨害欺き行為が肉体の範囲を超えて客観的空間にも及ぶ場合があり、その場合を超常現象という言葉で表現できると理解しました。

これと似た体験として、電話で自分あるいは相手が窮地に陥るような会話になった時、電話が切れたり、音声が聞き取りにくくなった経験は何度もあります。

その時自分あるいは相手が無意識的に電話を切ったり、聞き取りにくいように聴覚や発声の制御をしたに違いないとは理解していました。

超常現象は、このような体験、つまり自分あるいは相手が行う肉体操作ではなく、客観的に存在している機械を直接操作するという現象です。

この超常現象の存在は書物(論理的記載)からではなく、体験的に確かめるべき対象であると考えます。

2016年9月11日日曜日

グズ解消法

このブログを開設して幸福否定の学習をしている目的は自分のグズを少しでも解消しようという点にあります。

幸福否定の学習をして、感情の演技の真似事をはじめて、次のような感想が生まれましたので、メモしておきます。

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)を読み進めて、感情の演技の効果は本人には自覚が生まれないような状況、劇的な解決とはならない状況、一進一退(好転の否定)を繰り返す状況が書かれています。

そして、「意識で納得できる心理的原因は無意味」という小見出しで次のような重要な指摘がされています。

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私の経験では、真の意味での心理的原因が意識にのぼった場合、その瞬間に、心身の状態に多少なりとも変化が起こります。

また、再発もしにくくなり、能力の発揮や人格の向上などもついて来るのがふつうです。

ところが、原因を探り当てたという実感はほとんどありません。

それは、本人(の内心と、それに踊らされた意識)がそれを否定し続けてきた結果ですから、当然のことでしょう。

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この文章は心理療法を必要とするような心身症等を対象に書かれた文章ですが、この原理はグズという症状に対しても全く同じように考えてよいと思います。

自分がグズを改善したいとい考え、感情の演技など行うのですが、その心理的効果を自分の意識が直接観察するのは困難なようです。

ただ、グズが改善すれば、客観的には生活が改善されるのですから、自分の場合は趣味活動の効率化とか品質向上が見られるのですから、後から、間接的に観察できると考えます。

感情の演技実験で趣味活動において、自分の「本当にやりたいこと」をある程度絞ることができたと感じています。

その「本当にやりたいこと」に、各種もっともらしい理屈をつけて着手しない自分がいることがわかりました。

これからは「本当にやりたいこと」を絶えず実施する機会を設け、抵抗があれば、その分だけその事柄が重要である逆証と考え、「苦しみ」の時間を繰り返し持ってみたいと思います。

「本当にやりたいこと」に年に1回気がついて、その時チャレンジして挫折するというこれまでの状況と、月に1回チャレンジして、苦しいけれど続けるという状況を比較すると、後者の方が「本当にしたいこと」が実現し出す可能性が高まると確信できます。

感情の演技ではその真剣度がその効果に大いに影響すると指摘されていますが、それは「本当にしたいこと」を抵抗に遭遇してもめげずに続けるということに通じると考えます。

出来ないことは、出来るようにやってみる、出来るまでやってみる、継続してやってみるという常識的結論に対応する思考となりました。

ただ、常識的結論にも対応したということであって、大切なことは、幸福否定の学習を通じて反応(抵抗)に対処する窓が開いたということです。

反応(抵抗)に対処する窓がない状況で、「出来ないことは、出来るようにやってみる、出来るまでやってみる、継続してやってみるという常識」をいくら自分に言い聞かせても効果はほとんど無いような気がします。

花見川の浮島

2016年9月9日金曜日

人間の根源的幸福

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)では「創作活動と抵抗」という小見出しの中で、創作活動、あるいは未知や未踏の課題に取り組むことの喜びが人間であること実感できる重要な営みであり、それが根源的幸福であると述べられいます。

本心の本質がこの根源的幸福にかかわるものであり、それを全精力で否定しようとするのが内心の本質であるという構図を著者は設定しています。

その構図のうち、内心が本心を否定する、つまり幸福否定する状況を詳しく説明しているのが、この図書「幸せを拒む病」の要旨であると捉えました。

さて、内心が全精力を傾けて否定しようとする創作活動に関して2人の事例が紹介されています。

小林秀雄と中原中也の2人です。

小林秀雄の事例は2016.09.01記事「内心抵抗の見える化」で既に引用しました。

とても理解しりやすい事例です。

小林秀雄が創作の産みの苦しみ(内心の抵抗)で四つん這いになって這いまわったという逸話まで紹介されています。

中原中也の事例はざっと読むと、判ったような感じもします。

しかし、腑に落ちません。

書いてあることを間違っているとかという疑問はないのですが、中原中也の文章からくみ取るべき情報の意義が今ひとつわからないので、メモしておきます。

次に中原中也の事例紹介部分を引用します。

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創造の喜びとそれに対する抵抗から逃げる人たちが多いという事実については、小林秀雄の親友だった、昭和初期の詩人・中原中也が、二O歳の時に書いた日記(一九二七年一一月二五日付)の中で、次のように的確に表現しています。

常に人は自らで耕さなければならない!

すなわ他人を意識することは、夢を即ち生命を壊す。

私は、人と人との習慣的な同意を憎む!

これは、おおよそ次のような意味でしょう。

本来、生物たる人間は、自分の力で何かを創り出すようにできていて、それが生きる喜びになる。

ところが、現実にはそれを避け、人の評価や権威を基準にして、人に受け入れられやすい行動を起こす人たちが多い。

こうして習慣になったそのような行動は、互いに同意しやすいものの、生命の喜びに反している。

それでは、何のために生きているのかわからないので、私は、そのような生きかたを心の底から嫌う。

もちろん、人は、経済的に自立し、社会の中で受け入れられなければ生きていけません。

その一方で、「人はパンのみで生きるのではない」という特性が本来的に備わっているのも、まちがいないところです。

これこそが、動物にあらざる、人間独自の特性なのでしょう。

このように人間は、動物と違って、文化や芸術や科学などを何よりも(場合によっては人命よりも)尊重するという特性をもっています。

それは、探検的な性向という形でも現われます。

これらのことを人間がいかに重視しているかは、世界史をひもとけば、すぐにわかるでしょう。

エベレスト初登頂や新元素の発見など、実利的な側面から見るとどうということはないことが、人類史の中で非常に高く評価されるのです。

そのため、このような未知や未踏の課題にとり組むことの喜びは、自分が人間であることを実感させてくれる、きわめて重要な営みなのでしょう。

だからこそ、内心はこうした人間の根源的幸福を、全精力を傾けて否定しなければならないことになるわけです。

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要約すると次のようになると考えます。

1 人の評価や権威を基準にして行動していては創造活動にならない。生命の喜びに反している。(中原中也)

2 内心は人間の根源的幸福(創造活動など)を全勢力を傾けて否定する。(笠原敏雄)

自分の話ことばにすると次のようになります。

創造活動は人の評価や権威とは関係なく実行するべきものだ。(中原中也)そのような真に創造性を発揮するような状況が心に生まれたら、内心は全精力を傾けて否定することになる。(笠原敏雄)

私の疑問・違和感は中原中也が話していることがらと、内心の抵抗が結びつかない点にあります。

一般論として、社会(組織、集団)に浸かりこんでしまっては真の創造性が発揮できないかもしれないということは、創作を行う人はだれでも多かれ少なかれ感じると思います。

そのような一般論を中原中谷に言わせただけなら、それでよいのですが。

中原中谷が集団に浸かりこんでいたら十分な創作活動が出来ないことに気が付いた事例なのか、それとも内心の説明に関わる事例として紹介されたのか、不明であるという疑問です。

クズの花

2016年9月5日月曜日

怒りを治める方法と感情の演技の相似性

感情の演技を実践し始めて、次のような感想を持ちましたので、メモしておきます。

ずっと以前、20年以上前?、怒りを治める次のような方法を知ったことがあります。

ある相手に対して強い怒りが生まれた時、その相手が喜ぶことを考えてみるという方法です。

相手が喜ぶことを実際に実践すればなおさらのこと、実践しなくても、考えるだけで怒りが低減するという方法です。

生活の中で、この方法は大変有効です。

職業生活の中で生まれたある強い怒りをこの方法で静め、結果として関係先とのマイナス状況をプラス状況に劇的に転換できた体験があります。

この怒りを治める方法と感情の演技が心の在り方として相似しているように感じて仕方がありません。

怒りを治める方法と感情の演技の相似性

怒りを治める方法は一過性の現象、感情の演技は構造的現象という違いはありますが、心の操作方法は同じものであると感じてしまいます。

道にはみ出した花

2016年9月1日木曜日

内心抵抗の見える化

2016.08.25記事「睡魔の心理的原因を感情の演技で特定する実験 計画」で書いた通り、感情の演技実験を開始しました。

「ある感情の演技実験を行って、それをその日にブログ記事にする」という単純活動を想定していたのですが、実験するに従って背景理論の思考を深めたくなったり、実験結果の意味についても検討したくなりました。

実験結果の一通りのまとめはでき次第記事に書きたいと思います。

この記事では実験の中で頭をよぎった内心抵抗の見える化についてメモしておきます。

1 心の3層構造

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)で書かれている心の3層構造図解を自分なりに書中文章を追記して理解しやすくしてみました。

心の3層構造

2 感情の演技と内心抵抗の見える化

感情の演技に関する記述を書中のあちこちから抜き書きしてまとめて、感情の演技の特性を自分なりに把握します。

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うれしいという感情を中心に、素直な感情を作ってもらうのです。

感情の演技の場合には、抵抗が起こりやすくなるように、なるべく難しい条件を選んで行なうほうが効果的なのです。

それは、感情を作ろうとする努力を通じて、幸福に対する抵抗に直面させることこそが、治療に直結するからです。

反応とは、幸福を否定しようとする心の層である内心が、そうした感情を作らせまいとして、一瞬のうちに自分の体を操って作り出す現象ということになります。

そうした反応を押して、むりやり感情を作る努力を重ねることが、そのまま治療につながるのです。

そこが自己暗示と全く違うところです。

感情ができなければ治療に結びつかないのではなく、感情ができなくても、感情を作る努力を重ねてゆけば、自然に好転に向かうということです。

目的は、感情を作ること自体にあるのではなく、抵抗に直面することにあるからです。

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つまり、感情の演技とは反応(あくび、眠気、身体的変化)という肉体的客観現象の体験(観察)を通じて、内心の抵抗を見える化するということです。

感情の演技を繰り返すと治療効果があるという笠原敏雄先生の治験は、内心の抵抗が一定の秘匿性環境下でその機能を発揮していて、見える化するとその機能が弱まるという特性を物語っています。

さて、感情の演技という実験ではなく、実生活で反応が生まれた時、その反応を呼び起こした内心の抵抗が見えたと感得できれば(そのような思考を行えば)、内心の抵抗が弱まっていくと素人ながら思考します。

3 創作活動における産みの苦しみと内心抵抗の見える化

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)第3章の「幸福否定による現象② 自分の進歩や成長を嫌う」の中の小項目「創作活動と抵抗」を次に引用します。

自分の趣味活動は遊びではありますが創作活動であることは間違いありませんから、次の引用から思考を深めたいと思います。

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昔から“産みの苦しみ” という言葉があるように、作家や芸術家は、創作活動に際して苦しむことが知られています。

その苦しみは、一般に受け入れられやすい作品を作る時よりも、自分を満足させる作品を作る時のほうが、一般にはるかに強いものです。

それは、人に評価された時の喜びよりも、自分を心底から満足させることができた時の喜びのほうが、はるかに大きいためです。

著名な評論家だった小林秀雄が、旅館にこもって執筆している場面を、たまたま目撃したある文芸評論家は、後年、その経験を小林の妹に次のように伝えています。

書く人はみんな苦しみますよ。

でも小林先生の苦しみぶりは全くひどいですよ。

私はどこかの旅館で小林先生が仕事をしていらっしゃるところを、ちらりとみたことがあるんですがね。

部屋の中を四つんばいになって這いまわっていましたよ。

(高見沢、一九八五年、ニニ二ページ)

まさに産みの苦しみという形で、自分の体にそのような反応が自然に起こってしまったということなのでしょう。

もちろん、強い反応が出れば、それだけでその作品が優れたものになるという保証があるわけではありません。

とはいえ、妥協することなく、その反応を乗り越えて作品を作り出すことができれば、他人の評価はともかく、自分をうそ偽りなく喜ばせる作品になるのはまちがいないでしょう。

おおまかに言えば、反応から逃げて楽な方向へ向かうのではなく、反応が強く出る方向に進めばその分だけ、自分が心から満足できる作品に近づけることができるはずです。

現に、小林秀雄は、「苦しまなくては、本当の喜びはない」と語っていたそうです。

その言葉は、自分が本当にしたいことをしようとすれば、必ず苦しみを伴うという、長年の経験から生まれた確信なのでしょう。

内心が作りあげるものであるとしても、そのような関係があるのは確かだからです。

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小林秀雄は四つん這いになって這いまわって苦しんだ、つまり反応に苦しんだということです。

そしてその苦しみのなかで内心の抵抗をよく観察する(見る)ことによって、内心が秘匿環境下で抵抗を繰り広げる状況を狭めたのではないかと考えます。

小林秀雄の苦しみは、実は小林秀雄が自分の内心を見える化している姿であり、見える化することにより内心の抵抗を弱体化している姿であると考えます。

内心の抵抗に直面して苦しんだとき、その状況を客観視(甘受?)して、その状況に留まることができれば、さらにはその状況を繰り返すことができれば、内心の抵抗は弱体化するということであると素人思考します。

このように考えると、感情の演技の意義が大変大きなものであるとともに、感情の演技という実験知識を活用して、実生活の中で内心の抵抗を弱体化させるスキルの創出可能性も生まれます。

4 内心抵抗の見える化

自分自身の趣味生活における内心抵抗として睡魔という反応が存在します。

内心は睡魔という反応を肉体に生じせしめて、私が睡魔に耐えられなくなって趣味活動から離れるように仕向け、それにより、私が特定状況下では睡魔には勝てない意気地なし、弱虫であること、つまり「いわゆる自尊心の低い“自己像” が作りあげられます」。

そうして作りあげた自己像を見せる相手は、他人ではなく、あくまで自分自身なのです。

睡魔が発生するのは、娯楽的にパソコンに向かっているときには生まれません。

特定状況下でのみ生じます。

その特定状況をA状況と呼ぶことにします。

A状況とは例えば次のような状況です。

・単調で長時間の単純作業

・多要素を同時に判断するような複雑・煩雑な作業

・スキルがないのに高度なソフトを操作する場合

・専門知識がないのに専門資料を解読する場合

・素材(情報)が無いのに分析を始めた場合

・分析視点が不明確なのに分析を始めた場合

睡魔発生の真の原因がA状況であるのかどうか、不明ですが、いつも必ず睡魔発生の背景にA状況があります。

内心抵抗とA状況とが密接な関係にあることをこれからは絶えず意識することにします。

したがって、睡魔発生の場合、関連する具体的A状況を確認して、その状況の改善を図りながら作業を続け、睡魔と戦ってみると内心抵抗の見える化を促進できるのではないだろかと考えます。

単純に睡魔に耐えるだけではなく、反応に関係するA状況を特定して、その改善を図りつつ(つまり内心抵抗の存在を意識しつつ)趣味活動を続けてみると、内心抵抗の弱体化が図れるか、試してみることにします。

内心抵抗があった場合、その状況に踏みとどまり、その状況をある程度甘受してみる(意識してみる)ことが、直ぐに離脱する場合より良い結果を生むかどうか、試してみることにします。