2016年7月29日金曜日

幸福否定の個人差

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)の第3章「“幸福否定”から見た異常行動や症状の仕組み」の大項目「幸福否定による現象① 課題の解決を先送りする」では、幸福否定の個人差に触れていますので検討します。

著者の記述を自分なりに理解すると、幸福否定の個人差は4段階に分類できそうです。

1 幸福否定の意思の弱い人

「かなり前向きなこともほとんど抵抗なくできてしまう人が、ごく少数ながらいる」


2 幸福否定の意思が極めて強い人

「生死にかかわるほどの、あるいは、一生をだいなしにするほどの重大な行為を繰り返しても、なおかつ懲りようとしない人たちも、周知の通り、少数ながらいるわけです。

薬物やアルコールの依存者や、ギャンブルの耽溺者、犯罪の常習者などが、それに当たります。

そのような人たちには、意志が弱いという説明が当てられることが多いわけですが、そうではなく、幸福否定の意志がきわめて強く働いた結果として、自滅的な形をとっていると考えるべきでしょう。」

3 幸福否定の意思の強い人

「どれほど叱責されても、性懲りもなく遅刻や同じ失敗を繰り返す人は、みなさんのまわりにも何人かいるはずです。

そのような人たちは、自分が起こした行動の結末について、いちおうの謝罪はするかもしれませんが、真の意味での反省をすることはありません。

そして、周囲の迷惑や心配をよそに、まるで初めてでもあるかのように、全く同じ失敗を繰り返すのです。

そうなると、失敗という言葉は当たらず、それを目的として起こした行動と考えなければならないことがわかります。

幸福否定が弱い部分についてはまだしも、強い部分については、人から指摘されても、それを深刻に受け止めることができません。

それどころか、強い叱責を受けてすら、それが自分にとって一大事であることに、意識ではほとんど気づかないのです。

幸福を避けようとする方向に、みごとに一貫した行動をとっているにもかかわらず、意識の上では、ことの重大性がまるでわからないようになっています。

問題点を頭で理解したとしても、人ごとのようになってしまい、実感がまるで湧かないということです。

しかし、幸福否定に基づいて起こす行動であるとはいえ、やはり限度というものがあります。

つまり、その行動が繰り返せなくなるほどの痛手をこうむるまでのことは、原則としてしないということです。

ことの重大性とその認識に応じて、適度に自分の意識を困らせるように、内心がその度合を巧みに調節しているのです。

このようにして、肝心な課題の解決を先送りする傾向が温存されるわけです。」

4 幸福否定の意思が通常レベルの人

例えば、課題の解決を先送りする性向を供えた人であり、つまりほとんどの人は3か4に当てはまるのではないかと考えます。


図書「幸せを拒む病」ではこのように幸福否定の個人差を4段階くらいに分けているように感じられます。

しかし、幸福否定という心の現象は万人にあり、その原理は「幸福否定の意思の強い人」で引用した文章と同じであると理解します。

つまり、

・同じ失敗を繰り返す傾向

・人から指摘されても深刻に受け止めることが困難な傾向

・問題点を頭で理解したとしても実感が湧かない傾向

があり、同時に

・その行動が繰り返せなくなるほどの痛手をこうむるまでのことは原則としてしない傾向

・ことの重大性とその認識に応じて、適度に自分の意識を困らせるように、内心がその度合を巧みに調節する傾向

があり、結果として

・肝心な課題の解決を先送りする傾向が温存される

と考えます。


さて、幸福否定という心の現象は、その生物進化的理由が検討されるほどの現象ですから、生まれつき遺伝してきた現象であることは間違いないところだと思います。

従って、素人考えではその個人差も遺伝的なものが大きな比重を占めていると考えたくなります。

それでよいでしょうか?

幸福否定の個人差に遺伝以外の家庭環境、教育等の社会的要素、あるいは年齢・経験等の要素がどの程度関わるのか、笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)では全く触れていないようです。

そもそも心理療法家笠原敏雄さんが心理療法で幸福否定現象の緩和を実践されているのですから、幸福否定現象が社会要素で変化しうる(変化している)ことが原理として推察できます。

幸福否定の意思の強さの個人差がある程度は社会要素に関わっていることが推察できます。


また、自分自身の個人を例に取ると、加齢に従って幸福否定の意思が弱くなってきているように感じています。

ですから年齢・経験等で幸福否定の個人差が変動することも推察できます。


幸福否定現象そのものの原理を知ることが先決であることは当然ですが、その現象の個人差を単純に遺伝にだけ求めるのではなく、社会との関わりでも解釈したいという願望が生まれています。


花見川風景 2016.07.29

5 件のコメント:

  1. ハートセラピスト2016年8月21日 0:29

    >自分自身の個人を例に取ると、加齢に従って幸福否定の意思が弱くなってきているように感じています。

    心無い言葉を投げつけるようで躊躇われますが、加齢に従って幸福否定の意思が弱くなることはほとんどありません。
    そんな気がしているだけです。

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  2. ハートセラピスト さん

    コメントありがとうございます。

    自分の過去体験を振り返ると、加齢に従って幸福否定の意思が弱くなっているような実感を持ったという印象を書きました。

    社会における自分の立場や境遇、体験知識の積み重ねなど、内外の様々な状況の変化を勘案した上で、そのような感想を持ちます。

    加齢に従って幸福否定の意思が弱くなることはほとんどないという根拠とか事例などがもしあるのならば、ハートセラピストさんのお考えをお聞かせいただければありがたいです。

    よろしくお願いします。

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  3. ハートセラピスト2016年8月29日 21:07

    もちろん人間は進歩しようとするものですから、加齢と共に幸福の方向に進もうとします。
    が、幸福否定の意思は恐ろしく強いためなかなか進歩できません。
    また体験知識の積み重ねでその面では進歩する一方、人格面、対人関係面、夫婦関係面、身体健康面、創造性の発揮などで退歩すると言うこともあるわけです。
    なので差し引き少しだけ幸福否定が弱まるだけと言うことになります。
    荒木さんは以前から日常生活で幸福否定を乗り越えようと努力されていたようですので、他の人に比べたら幸福否定が弱まっていると思いますが。

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  4. ハートセラピストさん

    コメントありがとうございます。

    一般論として、加齢により幸福否定の意思が強くなるのか、弱くなるのか興味が深まります。

    一般人は、青年期から成人期に「生の幸福否定」で大きな失敗を繰り返し、その失敗からいくばくかの教訓を学びとるのではないかと思います。

    つまり「幸福否定」という言葉は知りませんが、その存在を無意識的に感じとって、反省し、あるいは懲りるのではないかと思います。

    老年期になると、そのような青年期、成人期の体験が有用なものとして作用するような気がします。

    自分の中にある幸福否定の意思との付き合い方が青年・成人期より老年期の方が巧みになると考えます。

    これを要約すれば、加齢により幸福否定の意思が弱まったと言えるのではないかと考えます。

    なお、加齢が終末に向かって進めば肉体的精神的に正常な機能が保たれなくなる時期がくると考えます。

    認知症などにもなり、つまり幸福否定の意思との効果的付き合い方ができなくなり、見かけ上幸福否定の意思が強まるのかもしれません。




    従って、老年期には

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  5. 従って、老年期には幸福否定との付き合いが上手な時期と、幸福否定の意思のコントロールが効かなくなる時期が混在するのかもしれません。

    青年・成人期の幸福否定の意思の強さの個人差と比べると、老人期の幸福否定の意思の強さ(との付き合い方)の個人差は大変大きくなると考えます。

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